取材は自然に囲まれた柴崎春通氏の自宅内のアトリエにて。「Waterclor by Shibasaki」の撮影もここでおこなう

“おじいちゃん先生”として人気を博す水彩画YouTuber・柴崎春通(しばさき・はるみち)氏。現在、74歳ながら、YouTube活動は6年めに入り、自身のチャンネル「Watercolor by Shibasaki」登録者数は134万人にも上る。

 この年齢でここまでの人気となると、もはや “日本一サムネで見るおじいちゃん” と言っても過言ではないだろう。

 今回は、柴崎氏の動画だけでは知りえない過去の経歴について、話を聞いた。

(74歳にして “バズった” 柴崎氏が語るポリシーなどは、別記事の「『登録者130万人超の74歳水彩画YouTuber』柴崎春通氏が考えるオンリーワンの“優しいバズり方”【Watercolor by Shibasakiインタビュー・前編】」で、お読みください)

【前編】柴崎春通氏が考える “優しいバズり方” とは

――柴崎さんは、子供のころから絵を描いていたんでしょうか。

 そうですね。手を動かすのは昔から好きでした。

 僕は終戦直後の昭和22(1947)年生まれで、子供のころは日本中が貧しかった。着るものすべてに穴が空いていたし、紙が豊富にある時代でもありませんでした。幼いころは、近所で大工さんから木くずをもらってきて、延々といじるのが楽しかったです。

 小学校に入ってから絵を描くようになると、友達や先生が上手い、上手いって言ってくれるんです。子供だから、いい気になりました。「春通くん、失敗した絵をくれる?」なんて言われて、絵をあげたら、その子が僕の絵を先生に提出したりして(笑)。

 先生に居残りさせられて、展覧会に出す絵を描かされたこともありました。さっさと描いて遊びに行きたいから、見てもいない富士山を描いては先生にダメ出しされて、ますますやる気がなくなった。そんな記憶ばかりです。

 いまでも、町で知り合いの人に会うと「やっぱり絵を描いているんですね」なんて言われます。絵描きになって当たり前、と思われていたのかもしれません。

――本格的に絵を学び始めたのは、いつごろからなのでしょうか。

 中学ではぜんぜん関係ない柔道をやっていたんです。ガキ大将でしたから、なにか乱暴なことをしたかったんでしょう。なかなか頑張りまして、千葉県で2位になったこともあります。

 でも、柔道では自分の限界を感じて、中学ですっぱり辞めました。高校に入ってなにをしようかと考えたとき、ふと「美術をやろう」と思ったんです。当時、美術部は休眠状態だったので、僕が1年生のときに部長として立ち上げました。

 美術部の顧問は、渡邉包夫(わたなべ・かねお)先生という、のちに『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)に日本画の鑑定で出演されていた方です。とってもおもしろい方だったんですが、授業では何も教えてくれなくてね(笑)。

 机に変な置き物を置いて「これを描くんだ」って言ったら、自分の研究室に入っちゃう。授業が終わると「お前ら、下手くそだな。柴崎みたいに描くんだぞ」って。

 そんな調子だから、美術部にもほとんどタッチしない人でした。部員のみんなで画集を見て研究して、自己流で絵を描くしかなかったんです。

動画でおこなう「添削」は視聴者の絵をその場で見て、モチーフを再現しながら改善点を書き加えていく

●親が「行ったほうがいい」と快く東京に

――では、実際に絵を学び始めたのは高校卒業後だったと。

 そうです。ただ就職の時期になっても、僕はなにも考えていなかったんです。友達が千葉県の公務員試験を受けに行くっていうんで、あわてて僕もついていったら、千葉県庁の観光課に就職が決まりました。

 だけど、決まると急に嫌になって「僕の人生は公務員で終わっちゃうのかな」などと思い始めたんです。そうしたら、ちょうど友達に東京の大学に行く、というやつがいて「これだ」とひらめきました。

 昔は、東京といったらはるか遠く、憧れの地でした。僕の家は農家ですから、その日は親が田植えをしていたのを覚えています。家に帰るなり「東京に行きたいんだけど……」って恐る恐る打ち明けた僕に、親は田んぼのなかから振り返って「行ったほうがいい」と言ってくれて。快く送り出してくれました。

 とりあえず、阿佐ヶ谷にある美術学校へ通うことにして、東京に出てきました。田舎から東京に着くと、もうびっくりです。たくさんのネオンで、空が赤いの。「俺はこんなところで生きていけるのかしら」と、すごく不安になりました。いまでも忘れられない光景です。

――そこから、勉強の日々が始まったんですね。

 東京では、みなさんの絵の上手さに圧倒されました。高校時代、自分は絵が上手いと思っていたけれど、比べられないレベル。芸大を目指して何年も通っている、髭の生えたおじさんもいるなかで、当時18歳の僕は驚くばかりでした。

 でも、のこのこ田舎には帰れませんから、いちばんうまい人の後ろにイーゼル(画架)を立てて、描く様子をじーっと見て学んだんです。

 帰り道では、新宿の「世界堂」で大きな石膏像をひとつ買って帰りました。目白にある3畳のアパートに住んでいたので、石膏像を置くと寝る場所がない。足は廊下に出して寝て、絵を描くときも、廊下に出て描いてました。それが、本格的に絵を学び始めた最初です。

――その美術学校には、どのぐらい通われたんでしょうか

 1年間通いました。頑張っているとだんだん成績も上がって、学内コンテストで3位以内に入れるようになってきました。翌年には東京藝術大学を受けに行こうとしたんですが、また途中で嫌になってしまって(笑)。理由は忘れてしまいました。

 そんなある日、山手線に乗っていたら、中吊り広告で「和光大学」という大学を、偶然見かけました。よく見たら「芸術学科」もある新設の学校らしく、行くところもないから、行ってみようと思い立ったんです。

 面接の試験官には「みんな絵が下手だから、僕がみんなに絵を教えます。入れてくれませんか」と話したら、「お前おもしろいやつだな、入れてやる」と言ってくださって。

 新進気鋭の先生が集まるいい学校だったんですが、僕はこんな人間ですから、あまり学校に行かず、絵を描くときだけ顔を出していました。当時は学生運動も盛んでしたから、まともな授業はできなかったんです。

動画内にも登場する愛猫のマロンと。もう1匹のトマトは警戒しており、写真に収めることができず……

――講師のお仕事は、大学を卒業されてから始められたんですね。

 そうです。大学卒業の時期になっても、例によって僕は何も考えていませんでした。卒業式も出ず、家でひっくり返っていたんですが、友達が「先生がお前のこと呼んでるからおいでよ」って言うんです。

 わけもわからず行ったら、その先生が「柴崎くん、アメリカから来た『講談社フェーマススクールズ』っていう美術の通信教育をやっている会社があるから、行ってみたら」と教えてくれたんです。給料を聞いたら「5万円ぐらい」。当時は大学の初任給で3万円程度でしたから「行きます!」と即答でした。

 面接は散々でしたけどね(笑)。作品を持っていったら、外国人の絵描きと、日本の絵描きが何人かいて、僕の絵になんだのかんだの文句をつける。

「ちくしょう、二度と来るか」って思いましたが、後日、紹介してくれた先生に「もう1回行っておいで」と言われて、行ったら「じゃあ、明日から来て」と言われたんです。それが、講師人生の始まりです。

 だから、僕の経歴はぜんぜん自慢できないんですよ。ほんと、そういう感じで生きてきちゃった。

――でも、講師のお仕事はとても長く続いたんですね。

 最初は大変でした。入社当時は24歳でしたから、錚々たる絵描きたちのなかで、僕は何の実績もない下っ端です。ほかの先生の筆を洗ったり、仕事の一部をもらったり、完全な上下関係ができあがっていました。

 一時期は本当につらくて、限界が来てしまって、田舎に帰ったこともあります。でも、母親の涙を見て、東京に戻りました。そうこうしているうちに、転機が訪れたんです。当時はフェーマススクールズが日本に来てから2年めぐらい。日本の絵描きも、海外から来た絵描きたちからダメ出しされるレベルだったんです。

 僕はアシスタントでしたから、他人の絵のダメなところやいいところ、どう描けばいいのかをひたすら見て、勉強することができました。そのうちある日、任された仕事が評価されて、アシスタントから講師に昇格することができたんです。

 先輩の絵描きたちと仕事の上で競争できるようになってからは、一気に頑張れるようになりました。僕より学歴も経験も上の人たちを追い越していくには、彼らができないことをやるしかありません。僕は自分の得意ジャンルを決めず、どんな絵でも、どんなモチーフでも、どんな画材でも絵を描けるようになろうと決めました。

 なおかつ、誰よりも早く、的確に。そうして頑張っていたら、給料にもダイレクトに跳ね返ってくるようになったんです。1年契約という厳しい世界でしたが、それだけに大きな自信になりました。

●仕事と親の世話 “二足のわらじ” の40代

――講師活動と同時に、絵描きとしての活動もされてきましたが、作品をコンクールに出されたことはあるんでしょうか。

 じつは先輩たちにすすめられて、何度か出したことはあるんです。でも “ああいう世界” が本当に嫌いでした。

 知らないおじいさんたちがエバッている上下関係は嫌いだし、自分の絵がいちばんいい場所に張り出されないと納得いかない。どうにも性に合いませんでした。

 それからは自分が描きたいものをひとりで描いています。講師としてガンガン稼いでいたので、自分の絵を売る必要もありませんでしたから。

 親が歳を取ってくると、自分の家庭と仕事を回しながら、親の世話や田んぼの面倒も見なくてはいけない時期が続きました。当時は二足のわらじ状態で大変でしたが、いよいよ限界がきて、親が農業をやめたあたりから、精神的にすごく楽になりました。それが、50歳近いころですね。

 自分の絵を描くことも楽しくなって、それから個展を毎年やるようになりました。米国に留学に行ったこともあります。ニューヨークのアパートに移った朝に「9.11」が起きたのには驚きましたね。それでも、現地ではいろいろな出会いがあって、プラザホテルで個展をやるなど、とてもいい経験になりました。

――活発に活動されている柴崎さんですが、2021年6月には、心臓の疾患で入院されていたと、YouTubeでお話されていました。

 心臓は、もう6回ぐらい手術をしているんです。昔、個展が終わってから車で家に帰るとき、高速で急に具合が悪くなったときは、さすがに「俺、死ぬな」と思いました。どうにか帰って、すぐに大きな病院で手術しました。いまは、ペースメーカーを入れて生活しています。

 そんなこともYouTubeでお話していたら、「じつは私もこんなことが……」といったコメントをたくさんいただきました。お互いに、よく気持ちがわかるので、労りあえるんです。

 僕もそろそろ75歳になりますから、どんなに頑張っても、ちゃんと手が動くのはあと5年かと思います。リミットが来るまでに何をすべきか。いまは時間を凝縮して使えるような気持ちでいます。

――子供のころから絵を描き続けて、現在74歳。柴崎さんにとって、好きなことを続けるコツはありますか。

 楽しければ、人間なんでもできますよ。僕は毎日、寝るとき、「明日は何が楽しくておもしろいかな」と考えるんです。そうして朝起きると、いくつも予定を立てちゃう。今日はあれとこれと、あれもできるかな。そうやって、おもしろいと思うことだけを追いかけてきました。

 つまらないことや嫌なことはやりません。それから、人のあとをくっついていくことほど、つまらないことはない。

 僕は昔、漢文の授業で習った「鶏口牛後」という言葉が大好きです。人間が生きていくときは、後ろにくっついていくだけの牛の尻尾じゃダメ。どんなに小さくても、先に立っていける鶏のくちばしになりなさいという意味です。座右の銘にしています。

 だから、生徒さんたちの先頭に立って「さあ、いきましょう!」って歩くのは大好き。お山の大将です。小学校のときから、通信簿に「協調性がない」って書かれ続け、そのまんま成長してしまいました。直らないね、人間って(笑)。

――YouTubeにTikTokなど、次々と新しいことを始める柴崎さんですが、今後、挑戦してみたいことはありますか。

 YouTubeは、どうしても一方通行になりがちなメディアです。ですから、もっと双方向にコミュニケーションができる配信をやりたいと思っています。

 いま現在も、YouTubeのメンバーシップに加入してくださっている方向けに、月2回の生配信をしているんです。視聴者さんがコメントしてくださって、僕もリアルタイムで返事をしながら絵を描いていきます。外国の方も参加してくださるので、通訳の方も入りながら、配信をしています。

 今後は、互いに顔を見られるような配信もやっていきたいです。そうしたら、もっときっと楽しいに違いない。近々、始められるよう、準備に取りかかっています。

 僕は、筆を走らせられる時間も、人生も残り少ないから、頑張らないといけません。僕の生徒さんには、冗談で「人間は、ちょうど手が震えてきたころにいい絵が描けるんだ」なんて言うんですけどね(笑)。

写真・久保貴弘