【森島 豊】大ヒット『鬼滅の刃』、若者に刺さりまくった「炭治郎の一言」をご存じか? 「どうでもいい」を超えるもの

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鬼滅の刃』の人気が止まらない。漫画は完結しているにもかかわらず、まだ連載中のような錯覚さえ起こす勢いだ。すでに様々な単行本の売り上げ記録を塗り替え、映画の興行収益や主題歌の反響も止まらない。もともと注目されていた漫画だが、2020年のコロナ禍でさらに注目されたように思える。しかし、なぜここまで人々の心に響いているのだろうか。

人気に乗じて漫画を読んだ大人は面食らうと思う。子どもたちには刺激が強すぎるからだ。鬼が人間を喰らう。家族が目の前で襲われる。むごい場面が多いにもかかわらず、幼い子どもたちが魅了されている。なぜ、こんな「おどろおどろしい」側面を持った作品に若い世代が心ひかれるのか。

だが、多くの読者はおどろおどろしさにのみ惹かれているわけではないだろう。多くの人は主人公の取り組みと言葉に励まされている。けれども、それだけならば似たような漫画もある。アニメ化が爆発的人気の要因だとか、年代や商品からの社会学的分析もされるが、どうやら本当の原因がよく分からないという。

なぜ『鬼滅の刃』が心にヒットしたのか。それは物語そのものに、現代人が抱える問題と、それに応えるメッセージがあるのではないか。作者の手を離れて、物語そのものが持つメッセージの一つを自由な気持ちで読み解いてみたい。

現代とリンクする「どうでもいい」世界観

漫画の内容は普段人間として過ごしている鬼の頭、鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)を倒すことを目的とした鬼殺隊(きさつたい)の物語だ。無惨は人間を鬼につくり変えることができる。鬼は人間を喰らうことで強くなれる。主人公の竈門炭治郎(かまど・たんじろう)は家族を鬼に殺され、鬼となってしまった妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻すために、鬼とたたかいながらその方法を探り、無惨を倒すことを目的とする。

この物語が向き合っている世界がある。その世界を象徴しているのが「どうでもいい」という表現だ。「どうでもいい」という言葉や同じ心境が主人公の周辺に描かれている。

登場人物の多くは、敵も味方も不条理な経験をしている。鬼殺隊も鬼にされた者も、孤児か劣悪な家庭環境にあった者たちだ。その痛ましい成長過程の中で自分も他人も「どうでもいい」ことになっていく。主役の鬼殺隊も、悪役の鬼も、「どうでもいい」という状況と心に襲われている。

重要なことは、鬼だけでなく、主人公たちも同じ心境にあることだ。両者の違いは紙一重だ。どちらも不条理を経験している。自分以外のことなどどうでもいい。いや、自分のことも、もうどうなってもいい。それは現代人がどこかで感じる厳しい現実の中の虚しさを代弁している。その意味では、戦後の「虚脱」世代や「三無主義(無気力、無関心、無責任)」と呼ばれた「しらけ世代」の本質的問題は、「ゆとり世代」や「さとり世代」になっても変わらないのかもしれない。

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けれども、登場人物のユニークなキャラクターはこの主題を深刻化させない。一人一人が置かれた境遇は深刻だが、明るいキャラクターがそれをひっくり返す。その明るさは破天荒な振る舞いにあらわれる。容姿も言動も常識やぶりの嘴平伊之助(はしびら・いのすけ)は猪のマスクをしている。背後のストーリーは重たいが、彼のキャラクターがその深刻さをひっくり返す。

「柱」と呼ばれる鬼殺隊は、みんな社会に溶け込めない性質をもっている。しかし、空気を読まない突き抜けた性格が読者を楽しい世界へ導く。

また物語の非政治性が読者を安心させる。この物語に政治の入る余地はない。鬼殺隊は政府の組織ではない。この敵とのたたかいには国家権力や政府をあてに出来ない。政治とは距離を置いたところで、いのちに関わる本質的なたたかいをしている。この舞台装置が政治と距離を置く世代の現実とリンクして、安心して読めるのかもしれない。

『鬼滅の刃』が通奏低音として響かせる世界観は、もしかするとコロナ禍に人々が強く抱いた想いに触れているかもしれない。2020年に起きた新型ウイルスとのたたかいは、現代社会が覆い隠していた問題をあらわにした。

容赦ない不景気は人々の存在を根底から脅かす。「感染者」「夜の街」「若者の感染」という文句は生き方に自信のない人々を圧迫する。不条理が人々に自暴自棄的な思いをおこさせる。「誰も必要としていない」。「生きていて、ごめんなさい」。この思いをどうすればよいのか。『鬼滅の刃』の爆発的人気の裏には、「どうでもいい」を克服したい読者の期待に応えた側面がある。

カナヲ=現代人

テンポよく進む場面の背後に「どうでもいい」という虚無的なストーリーが潜んでいるが、この主題に正面から向き合った一つの印象的なエピソードに注目しよう 。自分で何も決められない一人の女性、栗花落カナヲ(つゆり・かなを)が出てくる。カナヲは鬼殺隊の一人で実力者でもある。

表面的には綺麗で美しく、笑顔で過ごしている。けれども、心の中は空っぽで、感情がない。幼い頃、貧困と虐待をうける中で、自分を守るために感情を失くし、親に売られ、名前も付けられていなかったという背景を持つ。彼女は何も考えない。次のように言う。

「考える必要はない。言われた通りに鬼を斬るだけ」

上からの指令には従うけれども、自分ではどんなに小さなことでも決めない。話しかけられた相手と会話するかどうかも自分では決めない。その理由を問うと彼女は答える。

「どうでもいいの。全部どうでもいいから、自分で決められないの」

彼女に夢はない。生きがいもない。ただ目の前にあることをこなすだけ。それでいい。極力話さない。もちろん意見は言わない。冷たいが、悪意はない。それが美しい。

考えないのは学がないからではない。意見を言わないのは問題意識がないのではない。コミュ力が低いのは人格に問題があるからではない。理由は、それが彼女を守る術(すべ)だからだ。誰が教えたのでもない。彼女の人生が見つけた答えだ。同時に、多くの若者に自己認識を与える瞬間がここにあったと思える。

「この世にどうでもいいことなんて無いと思うよ」

漫画は現代人が抱えるこの問題に向き合う。もしかすると、本当の鬼(たたかうべき相手)はこの「どうでもいい」という虚無的な空気かもしれない。主人公の炭治郎は、不条理が産み出した一人の人間のあり方に向き合う。シンプルに、的確に、爽やかに答える。

「この世にどうでもいいことなんて無いと思うよ」

カナヲとのこの対話が多くの読者の心に響いていることはネットの書き込みからも明らかだ。読者は自己に重ねながら共感し、「どうでもいいことなんて無い」と言える世界に期待している。

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重要なことは、漫画では「どうでもいいことなんて無い」と言える理由を語らずに展開することだ。なぜ、どうでもいいことなんて無いと言えるのか。その根拠はどこにあるのか。その答えは語らない。

若い学生たちに触れていて気づかされることがある。失望の経験を重ねた世代に言葉は届かない。正確に言えば、言葉だけでは心に届かない。ロストジェネレーションに言葉は求められていない。フィーリングとイメージを重んじるこの世代に必要なのは「本気度」だ。つねに問われる。「まじで?」。

現代人が求めているのは、失敗してもいい、間違うこともある、それでも「見捨てない」「投げ出さない」という心との出会いかもしれない。なぜならば、裏切られたことの多い世代だからだ。時代に、国家に、政治に、経済に、教育に、家族に、仲間に、どこかで失望を味わったことがある。

『鬼滅の刃』はこの世代に、言葉だけでなく、どのようにして、「この世にどうでもいいことなんて無い」という理由を伝えたのか。

あなたを必要とする社会がある

漫画では「この世にどうでもいいことなんて無い」と言える理由を、言葉ではなく、物語そのもので伝えている。歴史を喪失した人間には、新しい物語(his・story)が求められる。物語そのものがイメージを与え、生きる意味に気づかせていく。 

展開していく物語の中では、「どうでもよくない他者」がいることが示唆され、他者を守る使命に生きる喜びが暗示されている。つまり、「どうでもいいことなんて無い」と言えるのは、「どうでもよくない他者」がいるからだ。その他者がいるから「この世にどうでもいいことなんて無い」と言えるようになる。その他者は、はじめから存在するのではなく、つくっていく関係なのだ。

本作では、大事な存在がいるかどうかが決定的に重要になる場面が多い。愛する存在がいる。愛してくれた関係がある。それがその人物を立ち直らせていく。主役も悪役も、自分を取り戻す登場人物は、どこかでわずかでも誰かに愛された記憶があり、自分を愛してくれた人との経験を思い出すなかで自分を取り戻していく。

彼らは自分を愛してくれた「どうでもよくない他者」を見つけていく。そうすることで、自分のことを「どうでもいい」と思わない人々が生まれ、自分の存在意義を感じられるのだ。「あなたを必要とする社会がある。それがあなたを立ち直らせる」。物語そのものがその世界に導いている。

読者にこうした「重要な他者」を発見させるメッセージは、数年前に注目された、戦前の作品の漫画版『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)とも共通する。何のために生きるのか。どう生きるのか。この難しい問いに答えるため、この作品の物語もやはり、登場人物を不条理な現実に向きあわせ、「重要な他者」を発見させていく。関係の希薄な現代社会で、生きる意味を見失いかけている世代に通じる「他者のために生きる」というメッセージがここにある。

『鬼滅の刃』は生き方に自信のない人々を励ます。「生きててごめんなさい」とつぶやく人に、「あなたも生きていいんだ」と背中を押す。あなたにしかできないこと(呼吸)があるからだ。

やさしくない社会で優しさが求められている

『鬼滅の刃』ではこうした「生きていいんだ」というメッセージが敵にも向けられる。それを支えるのが炭治郎の「優しさ」だ。当初、炭治郎の優しさは欠点だった。炭治郎を剣士に育てた鱗滝左近次(うろこだき・さこんじ)は、彼の尋常ではない優しさを前にして「この子には無理だ」と言う。

しかし、欠点であったものが、新しい未来をひらく鍵になる。炭治郎の優しさは、ときに死にゆく鬼の魂を救い、忘れていた愛の記憶を思い起こさせ、現世で不可能な赦(ゆる)しと和解の実現をあの世で語らせる。

「優しい」という漢字は「憂(うれ)い」のある「人」と書く。ドロドロとした憂鬱な出来事を経験したことのある人がはじめて優しくあれるのかもしれない。そのような人間がまた優れているのだろう。

優秀な人間とは完璧な人ではない。失敗や挫折を経験し、人の弱さを理解できる存在が、優れた人なのだ。もしかすると、社会はそのような存在を求めているのかもしれない。主人公は弱く、愚かで、失敗が多い。弱者による優しさに支えられたたたかいが、不条理な社会への不満を募らせる人々の心をとらえているのかもしれない。