なかでもイングランド・サッカー協会が創設100周年を迎えた63年、ウェンブリーで行なわれた記念試合では、世界選抜の一員としてイングランド代表の名手たちのシュートを全て止めたことで、ヤシンの存在は観客たちの心に深く刻み込まれた。

 黒いユニホームと、手足の長さから「黒クモ」「黒豹」、英国では「黒タコ」と呼ばれたヤシンはこの年、ルイジ・リーバ、ジミー・グリーブスといった伝説的な攻撃的選手を抑え、ソ連人として初、そしてGKとしては今なお唯一のバロンドール受賞者となった。

 東西冷戦の真っただ中にあった時代にもかかわらず、ヤシンは世界を区切っていた「鉄のカーテン」を幾度も越え、その技術でファンを魅了するだけでなく、真面目ながらもユーモア溢れる明るい人柄で、西側のスター選手たちとも友好を深めていった。

 ちなみに62年には、ディナモの一員として「三国対抗国際サッカー大会」に参加するために来日し、日本代表(3-2で勝利)の他、スウェーデン代表(0-0)とも対戦。この試合は、日本における初の欧州勢同士の対戦ということもあり、会場となった後楽園競輪場に3万人の観衆を集め、ヤシンは世界最高レベルのプレーを存分に披露している。
 クラブでのキャリアをディナモ一筋で20年以上続けたヤシンは、またソ連代表選手としても、14年もの長きにわたって母国のゴールマウスを守り続けた。そしてここでも、彼は自らのセービングによって多くの勝利と栄光をチームにもたらしている。

 ディナモで正GKとなった翌年の1954年に代表入りを果たし、9月8日のスウェーデン戦でデビュー。すぐに代表でもレギュラーポジションを獲得すると、翌55年8月には世界王者・西ドイツ(当時)との一戦で好プレーを連発して3-2の勝利に貢献し、一躍世界に知られる存在となった。

 代表レベルで初めて栄冠を手にしたのは、その1年後である。オーストラリア・メルボルンで開催された夏季オリンピック、決勝でユーゴスラビアを下して金メダルを獲得。これは、ソ連にとって初めての国際タイトルであり、ヤシンは5試合中4試合でスタメン出場を果たし、失点をわずか2に抑えてみせた。

 58年にはスウェーデン・ワールドカップに出場。ソ連は初出場ながらも優勝候補のひとつに挙げられていたが、それもひとえにヤシンがゴール前に立っていたからだ。そのような期待に彼は十二分に応え、どの試合でも革新的なプレーで観客を魅了した。

 なかでもグループリーグのブラジル戦は0-2で敗れたものの、実に12回のファインセーブを見せ、この大会を制することになるタレント軍団を大いに苦しめた。当時17歳だった“王様”ペレは後年、ヤシンの度重なる美技を目の当たりにして「彼からゴールを奪うのは不可能だと思い、気が滅入ってしまった」と述懐している。

 ソ連はプレーオフでイングランドを下し、決勝トーナメントに進出。開催国スウェーデンに敗れて準々決勝で歩みは止まったものの、好印象を与えた彼らの快進撃は続き、2年後、新たなタイトルを手にする。

 アンリ・ドロネーらによって設立された「欧州ネーションズ・カップ」、後の「EURO(欧州選手権)」は、UEFA加盟国による大陸ナンバーワン代表チームを決める新たなコンペティションであり、予選を勝ち抜いた4か国による記念すべき第1回目の本大会は、フランスで開催された。

 ソ連は予選準々決勝でスペインとのカードが組まれるも、共産主義を嫌うフランコ体制がモスクワ遠征を許さなかったことでスペインが棄権、不戦勝で本大会へ駒を進めることになったが、準決勝ではチェコスロバキアを3-0で下し、ファイナリストに相応しい実力を持つことを証明した。