1988年、埼玉県の路上で女子高生が拉致され、40日間にわたって足立区綾瀬で監禁されて暴行・強姦を受け続け、死亡した。『週刊文春』取材班がみた被害女性の父親の背中には、怒りと絶望と悲しみがあった--。

※本稿は、松井清人『異端者たちが時代をつくる』(プレジデント社)の第5章「『実名報道』影の立役者」の一部を再編集したものです。

写真=読売新聞/アフロ
1988年、女子高生の遺体がコンクリート詰めで捨てられていた江東区内の現場付近。いまだに空き地が目立つ。(東京・江東区若洲で2002年12月3日撮影) - 写真=読売新聞/アフロ

■少年法「その条文とガイドライン」

少年法が施行されたのは、1948(昭和23)年。マスコミの実名報道を禁じているのは、第61条の条文だ。

〈家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。〉

ただし掲載の判断は、各報道機関に委ねられている。掲載した場合の罰則規定もない。

日本新聞協会は、1958(昭和33)年12月に以下のガイドラインを定めている。

〈少年法第61条の扱いの方針
少年法第61条は、未成熟な少年を保護し、その将来の更生を可能にするためのものであるから、新聞は少年たちの“親”の立場に立って、法の精神を実せんすべきである。罰則がつけられていないのは、新聞の自主的規制に待とうとの趣旨によるものなので、新聞はいっそう社会的責任を痛感しなければならない。すなわち、20歳未満の非行少年の氏名、写真などは、紙面に掲載すべきではない。(後略)〉

日本雑誌協会には、これに類するものはない。

『週刊文春』は、前週の4月13日号の記事タイトルでも、「彼らに少年法が必要か」と疑問を呈している。少年法に関する疑問と世の中への問題提起は、事件発生時から大きなテーマであり、取材を進めるにつれ、編集部内で議論はさらに高まっていった。

■犯人4人の名前を特定する取材

論点は2つ。ひとつは、犯行の凶悪さに対して、予想される刑期が軽すぎるのではないかということ。もうひとつが実名報道だ。被害者が美少女だったこともあって、週刊誌もテレビも彼女の写真は大映しで、プライバシーに関する報道も続いていた。一方、犯人4人は同じ未成年なのに、一貫して匿名のまま。おかげで、保護者たちも雲隠れを続けることができていた。

取材班は、少年法について学んだ。多くの識者にも意見を求めた。彼ら4人の名前を世に知らしめ、少年法の在り方について論議を促すことは、新聞やテレビにはできない。しかし週刊誌ならできる、という意見が大勢を占めた。

実名報道を決めるのも大変な判断だが、その裏ではさらに大変かつ地道な努力が続けられていた。4人の名前を特定する取材だ。そもそも名前がわからなければ、報じることはできない。さらに、もしも名前を間違えようものなら、少年法の意義を問うどころの騒ぎではない。

その取材を一身に担ったのが、前出の佐々木弘記者だった。鉄壁の少年法に守られて、警察からの発表はもちろんない。担当デスクの私は、佐々木さんに、

「実名でいきたいので、なんとか4人の名前を特定してください」

と頼んだ。佐々木さんは事件現場の綾瀬へ連日通い、少年たちの自宅や盛り場周辺で聞き込みを続け、中学校時代のクラスメイトや遊び仲間を訪ね回った。

■残る3人の中に逮捕者が2人いる

私は、現場周辺で聞き込めば、少年たちの名前はすぐにわかるだろう、と甘く考えていた。ところが、逮捕された少年たちのほとんどの家はもぬけの殻。複雑な事情を抱えた家庭が多かった。惨劇の舞台となったBの家の両親も、行方をくらましている。少年たちがどこにいるか、容易には確認できなかった。

最後まで事情聴取を受けていた少年は、7人。逮捕されたのは、そのうちの4人だ。7人の名前は判明しているが、その中の誰が逮捕されたのかがわからない。それでも佐々木記者の徹底取材で、家に帰された少年2人の名前はわかった。逮捕された4人のうち、2人の名前も確認できた。つまり、残る3人の中に逮捕者が2人いる。

『週刊文春』の原稿の締め切りは火曜日の朝。逮捕された4人のうち2人しか特定できないまま、取材リミットの月曜日の夜を迎えた。私は言った。

「佐々木さん、4人を特定できなかったら、残念ながら実名報道はできません」
「それは当然だよ。重大な記事だということはわかっているから、最後にひとつだけ、ぼくにやらせて」

そう言い残して、佐々木さんは編集部を後にした。

2時間か3時間が過ぎたころだろうか。編集部でじりじりしながら待つ私に、佐々木さんから電話が入る。

「残り2人の名前が特定できたよ。絶対に間違いないから」
「そうですか! よくやってくれました。お疲れさまです。編集部に上がってください」

■捜査幹部「こんな酷い事件は前代未聞だ」

あとで聞くと、佐々木さんが最後に向かった取材先は、この事件を担当する幹部クラスの捜査員の自宅だった。ようやく招き入れてくれた相手に、取材の意図を丁寧に説明する。その捜査幹部は、犯行に対する強烈な怒りを隠そうとせず、実名報道にも理解を示してくれた。

しかし、逮捕した少年の名前は頑として明かさない。

「こんな酷い事件は前代未聞だ。長い刑事人生でも、あんなに悲惨な遺体を見たのは初めてだ。いくら少年だといっても、こんな奴らは厳しく罰しなければ、日本の社会が大変なことになる。それぐらい酷い事件だ」
「だからウチの週刊誌はあえて実名で報道して、少年法に関する議論を提起したい。そのためには、4人の名前を間違えるわけにはいかないんです」
「あなたの気持ちは、本当によくわかる。でも立場上、それだけは言えないんだよ」

30分がたち、1時間が過ぎた。佐々木さんは、こう持ちかけた。

「私たちは、家に帰された2人と、逮捕された4人のうち2人の名前まで特定しています。残り3人の中で誰が釈放されて、誰と誰が逮捕されたのかがわからない。今からその3人の名前を順番に言います。逮捕した少年の名前にうなずいたら、あなたが私に教えたことになる。だから、“いま警察にいない者”の名前を言ったときに、うなずいてほしい」

■大ベテラン記者の切り札と配慮

“警察にいる者”を聞けば、逮捕者の名前を漏らすことになる。しかし、逮捕されなかった少年の確認なら、捜査情報の漏洩にはならない。大ベテラン佐々木記者ならではの、巧妙な切り札であり、相手への配慮だ。

捜査員は「わかった」とさえ言わなかったが、佐々木さんは構わず、順番に名前を挙げていった。

1人目……反応はない。2人目……捜査員は、小さくうなずく。3人目……反応はない。

「もう一度繰り返します」

佐々木さんは慎重に、同じ順番で名前を挙げていった。捜査幹部は最初と同じく、2人目の名前にだけ小さくうなずいた。逮捕された少年は、1人目と3人目だった。それは佐々木さんの熱意と誠意が、捜査幹部の正義感を突き動かした瞬間だった。

佐々木さんは捜査員の家を出ると、急いで公衆電話を探し、私に報告したのだ。

ところが、いつまでたっても編集部に戻ってこない。

名うてのグルメだから、さてはいい気分になって旨いものを肴(さかな)に一杯やっているのかなと思ったが、とんでもない。『週刊文春』の誇る名物記者は、私が思っていた以上にプロフェッショナルだった。深夜零時近くなって編集部に上がってきた佐々木さんは、開口一番、

「松井さん、ごめんなさい」

と頭を下げた。

■2つの宿題

「ぼくには、頼まれた宿題が2つあったよね。逮捕された4人の名前の特定と、被害者のお父さんのコメントを取ってくること。

2つ目の宿題がまだできていなかったから、ぼくは捜査員の家を出たあと、八潮市の女子高生の自宅に行ったのよ。あの家には何度も行っていて、いつもは新聞記者やテレビ局のレポーターがたくさん張り込んでいるのに、今夜は時間も遅いせいか、誰もいなくて真っ暗だった。『ああ、みんな引き揚げたんだ』と思って、呼び鈴を押そうかどうしようかと迷っていたら、急に門灯が点いた。そして、お父さんらしき人が、手にほうきを持って出てきたんだ。

松井 清人『異端者たちが時代をつくる』プレジデント社

張り込んでいた記者たちのタバコの吸い殻なんかが、門の前に散らかっていたのかもしれない。それを黙って掃き始めたお父さんを見たら、ものすごい怒りと絶望と悲しみが、体中からにじみ出てくるようだった。ぼくは、ついに声をかけられなかったんだ。家に入っていくお父さんの背中を追って、呼び鈴を押すこともできなかった。30数年も記者をやってきたけど、こんなことは初めて。本当にごめんなさい」

私はひと言、

「それでよかったと思います。もう充分ですよ」

とだけ答えた。

実名報道に踏み切るかどうかという花田さんの最後の決断を、佐々木さんがじっと待っていたのは、こういう経緯があったからだ。「これで、被害者とお父さんが少しは浮かばれるよ」と言った佐々木さんの脳裏には、その夜の父親の背中が思い起こされていたのだろう。

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松井 清人(まつい・きよんど)
文藝春秋 前社長
1950年、東京都生まれ。東京教育大学(現・筑波大学)卒業後、74年文藝春秋入社。『諸君!』『週刊文春』、月刊誌『文藝春秋』の編集長、第一編集局長などを経て、2013年に専務。14年社長に就任し、18年に退任した。
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(文藝春秋 前社長 松井 清人)