学生の窓口編集部

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12月30日放送、「日本人として知っておくべき 戦後の51人」には、日本人が最も愛した男、石原裕次郎。裕次郎について知っておくべきことは、「映画に主演し主題歌も歌う俳優」だということ。石原裕次郎が映画の中で歌った主題歌はすべて大ヒットし、数々のミリオンセラーを記録した。石原裕次郎は日本で最初に記者会見を開いた芸能人で、芸能人が年末年始をハワイで過ごすというステータスも裕次郎が最初だと言われている。

石原裕次郎は1934年神戸市で誕生。幼少期は北海道の小樽市で過ごす。父親は汽船会社の重役で、日本人離れした長い手足で慶応高校時代はバスケットに熱中。1956年、兄石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」に脇役として出演。慶応大学を中退して日活に入社し「狂った果実」で主演デビューし、瞬く間に銀幕の大スターとなった。1963年、石原プロを設立し、第1回作品「太平洋ひとりぼっち」は第18回芸術祭賞を受賞。70年代には活躍の場をテレビに移し、「太陽にほえろ!」「西部警察」などで人気を博す。幅広い世代に支持され、歌手としても「銀座の恋の物語」や「ブランデーグラス」などのヒット作を生み出すなど、昭和史に残る活躍をした。

1968年、34歳の時、ピンチが訪れた。黒四ダムの建設物語である「黒部の太陽」が、映画会社の横槍で役者やスタッフが集まらない事態となってしまった。役者が揃わず、配給先の劇場の確保もままならない。そんな事態。だが兄石原慎太郎が動き、旧知の東宝重役の元を訪ね、大手電力などの協力を得て壁を突き動かし、昭和43年2月、「黒部の太陽」は公開にこぎつけた。制作費3億9000万円は破格で、観客動員数733万7000人。興行収入16億円は当時として最高記録となった。

1987年、52歳のとき、ハワイの別荘で新曲のレコーディングに取り組んでいたが体調は悪かった。曲の題材は「わが人生に悔いなし」。自分の人生というよりも石原裕次郎を太陽として仰ぎ見つつ頑張って生きてきた同年代の男たちの人生を肯定するような歌だった。

4月に慶應病院に入院。7月17日に、永眠した。亡くなった直後の病室の窓からは、強い日差しと風の向こうに大きな虹がかかっていたという。新は肝細胞癌。享年は52歳だった。