「思い出したくもない過去だから、ずっと封印してきた」。4年で終わった養父との暮らしを匡志さんはそう振り返る

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【前後編の前編/後編を読む】「上司と寝ちゃった」。妻の告白に嫉妬はない、むしろ感動、惚れ直した…45歳で“0日婚”した男の女性観

 人は人生で3回、本気の恋をするという説がある。なにをもって「本気」とするのかは定かではないが、そう言われると指を折って数えたくなるのが人の性かもしれない。

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「人が恋するのは3回どころじゃないと思うけど」

 苦笑しながらそう言ったのは、岸谷匡志さん(55歳・仮名=以下同)だ。周りからは「恋多き男性」と称されているらしいが、本人は「人を好きになることのなにがいけないのか」と思っているようだ。そして今、彼はつくづく「結婚とは何か」と考えている。45歳のときに「デキ婚」したため、ひとり娘はまだ10歳。ようやく人生を真剣に考える時期がきたのか、はたまた考えざるを得なくなったのか。

「思い出したくもない過去だから、ずっと封印してきた」。4年で終わった養父との暮らしを匡志さんはそう振り返る

「たとえ今死んだとしても、楽しかったと思える人生にしたい。僕はずっとそう思いながら生きてきました。そう言う人は多いと思うけど、なかなかそういう人生は送れないものですよね。ただ、僕は10歳で父親を、15歳で母親を失っているんです。家族の縁が薄かったから、早い時期から人生を自分で作っていくしかないと思っていた」

母の再婚で得た安定と孤独

 父が病気で亡くなったあと、母は1年足らずで親戚に紹介された男性と再婚した。その人にもひとり息子がいた。経済と生活、両方の側面からニーズが一致したのだろう。小学生だった匡志さんは、心のどこかで新しい父親に反発しながらも経済的に安定した生活を享受した。1歳違いの弟となった連れ子は、母の手作り料理をむさぼるように食べた。

「安定しているように見えたけど、それは母の我慢の上に成り立っていたようです。同じ立場での再婚なのに、女性が我慢するしかない生活だったんでしょう。稼ぐほうが偉いという価値観が強かったんだと思います。中学生のころ、母には何度か『おかあさんと一緒に家を出る?』『また貧乏になったらつらいよね』と言われたことがあります。嫌なら別れちゃえばいいよとあっさり言った記憶もある。でも母は世間体や僕のことを気にしたんでしょう。ひとりでこの世とおさらばする道を選んだ。今となってはかわいそうだったなと思うけど、無責任でもありますよね」

 母の再婚相手である養父は、母亡き後、目に見えて匡志さんを冷たくあしらった。彼にとっては「勝手にいなくなった妻の遺した子を、どうして自分がめんどう見なければいけないのか」と思っただろう。たった4年の結婚だったのだから。

「あとで知ったのですが、母にその男性を紹介した親戚も、他の親戚から責められたようです。いい人だと思って紹介したんでしょうけど、合わなかった。母は最初から合わないとわかっていたはず。でも生活のためにその道を選んでしまった。思い出したくもない過去だから、ずっと封印してきたんですが、大人になってからはたびたび母や養父のことを考えるようになりました」

叔父一家の明るさに救われて

 10歳で亡くなった父の死亡保険の受取人は匡志さんだった。母がそっくり取っておいたそのお金で、匡志さんは、とある地方の全寮制の高校に入学した。父の弟である叔父が保護者となってくれた。叔父は「金以外なら何でも頼れ」と言ってくれたそうだ。

「叔父さんは本当に楽しい人で、連休や夏休みなどは叔父のところで過ごしていました。商売をやっているので手伝って、その代わりにごはんを食べさせてもらって。いつも『うちは貧乏だから、すまねえな』と言ってたけど、叔父一家は明るいから、僕は曲がった人生を歩まないですんだと感謝しているんです」

 高校を卒業、奨学金をもらって大学へ進学した。私立だったため、奨学金は数百万円となり、返済には15年以上かかったそうだ。

「ときどき弟には会ってました。寮に会いに来たこともあった。彼は、母を失ったことで、僕より心に穴があいてしまったようでした。7歳で生みの母を亡くし、14歳という多感な時期に新しい母を亡くしているから、彼の心の痛みは相当なものだったと思います。一時期は警察のやっかいになったこともあったけど、大人になってからはむしろ、ひどくまっとうな常識人になっていて、僕は今でも彼を世間の常識の指針にしているところがありますね」

 母の悲惨な再婚を目の当たりにしながら、一方で叔父一家の明るさに触れ、彼の家族観や結婚観はなかなか定まらなかった。女性観、恋愛観も「ブレブレです」と言う。

高校時代に出会った“天女”

「僕の初体験って、高校時代、相手は人妻なんですよ。休みの日に寮から1時間くらいかかる観光地の近くをひとりでぶらぶらしていたら、熱中症みたいになってしまって。人混みを避けて道端で休んでいたら『大丈夫?』と女性に声をかけられた。『うちで休んでいきなさい』と家に入れてもらって、涼しいところで休みました。冷たい飲み物をゴクゴク飲んだ記憶はあるんですが、そこからは夢かうつつかみたいな状態で、あっけなく天国に行っちゃった、みたいな感じ」

 そんなことってあるのだろうかという思いが顔に出たのだろう。「本当ですってば」と匡志さんは笑った。まあ、世の中、なにがあるかわからないから、彼の言葉を信じることにした。

「柔らかくてあったかくて気持ちがいい。そう思いました。あのとき天女に会ったんだと僕は思っているんです。こんないい思いができるなら、もうちょっと生きていたいなと。そう思ったということは、僕自身もあのころ少し病んでいたんだろうとは思いますね」

 その記憶が強烈すぎて、彼は2度とその近くには行けなかった。30代になってから行ってみたことがあるのだが、記憶も曖昧だし、該当する家を見つけ出すこともできなかった。だから「ひょっとしたら熱中症で幻を見たのか、あるいは本当に天女が降りてきたのか」と考えることにしているそうだ。

ジャズバーで見た人間関係

 大学時代はアパートを借りて暮らしていた。講義は適当にサボりながらアルバイトに精を出した。アルバイトはいくつも渡り歩いたが、いちばん長く続いたのはジャズバーだった。ここで「いろいろな人生を垣間見た」と彼は言う。

「お客さん同士、スタッフ同士、ライブに出る演奏者同士、さらにそこにいろいろな人がからんで恋愛したり別れたり、憎み合ったり愛し合ったり。濃い人間関係を見ましたね。僕自身、スタッフの女性と恋に落ちて楽しい時間を過ごしたのに、最後は手ひどくフラれて痛い思いもしました。それも含めて青春って感じでしたが」

 就職活動をしなければならない時期が来たが、彼は「まっとうにサラリーマンになれるとは思えなかった」から、ぐずぐずと過ごし、結果、留年ということになった。やりたいことも目指すものもなかった。それでも食べていかなければならないことだけはわかっていた。

「ジャズバーのオーナーに、なにをやりたいんだと聞かれたけど答えられなかった。僕もジャズが大好きになっていたから、ここで雇ってもらえないかとは言ってみましたが、『うちはこんな小さな店だからバイトとしてしか雇えない。ごめん』と。オーナーは、知り合いにいろいろ聞いてくれたんですよ。だけど僕も考えてみたら、ものすごくジャズに詳しいわけではない、バーの接客に誇りを持っているわけでもない、店の経営に興味があるわけでもない。つまりは雇われているその店が好きで、そこにいたいだけだった。人生を甘く見てるなと自分でも思いました」

 それまで彼にとって、「父と母の分まで生きる」ことがすべてだった。どう生きるかについては考えてこなかったのだろう。幼いころ、父が「とうさんは大学に行けなかったから、おまえは行けよ」と言ったことがあった。だから迷いなく進学したのだが、自分の人生をもっと考えれば、専門学校へ行って技術を身につける選択肢もあったはずだった。

「ともかく留年したのだから、自分の人生について考えよう。そう決めたはずなんですけどね……」

「愛人」と噂された年上女性からの「おいでよ」

 バーに来ていた年上の女性と仲よくなった。彼女は「とあるお金持ちの愛人」と噂されていた女性だ。うちにおいでよと言われて、そのまま居着いてしまった。

「週に1度だけ、行ってはいけない日があったから、その日は彼が来ていたんでしょう。僕の物を持ち込まないようにと言われていました。愛人だろうとなんだろうと、彼女は素敵な人だった。しばらくは大丈夫だったんだけど、あるとき店にバレまして。『あの女だけはやめておけ』と言われました。ちょっと危ない筋の人の愛人だったみたいで。でも、本当に情があって気っ風がよくていい女性でした。結局、彼女のほうから『巻き込んだらかわいそう。もう来ないで』と言われました。店にはときどき来ていましたから、僕は未練を断つのが大変だった」

 短い期間だったが、まさに「恋」だったと彼は懐かしそうな目で話してくれた。そして翌年、彼は就職した。

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 記事後編では、就職後も重ねた匡志さんの恋愛と、45歳での「交際0日婚」を紹介している。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部