「なるほど、8頭身のサザエさんもあるのね」 生みの親・長谷川町子さん、関係者が語った“物静かでマスコミ嫌い”の素顔
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ギネス記録を更新中
平成4(1992)年5月27日、「サザエさん」の生みの親である長谷川町子さんが72歳で死去した。新聞の連載漫画として始まった「サザエさん」は、平屋の一軒家で暮らす磯野波平一家とフグ田マスオ一家の物語。サザエは波平の娘でマスオの妻だ。令和の今では減少の一途にある二世帯同居だが、この家はいつも笑いと安らぎで満たされている。
テレビアニメの放送開始は昭和44(1969)年10月のこと。現在も新作が放送され、「世界で最も長く放送されているテレビアニメ番組」としてギネス記録の更新を続けている。変わらぬ世界観を“時代遅れ”と揶揄する声もあるが、日曜の夕方に「お魚くわえた〜」と主題歌が流れると、ついつい画面に見入ってしまう人は多いだろう。

偉大な名作を生みだした長谷川町子さんだが、その死はなぜか1カ月近くも伏せられていたという。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」のバックナンバーで、天才とも称された漫画家の素顔を覗いてみよう。
(以下、「週刊新潮」1992年7月16日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の年齢・肩書き等は掲載当時のものです)
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ほぼ1カ月も伏せられた死
「6月の中旬でしたか、社の方に姉妹社の長谷川毬子社長から電話がありましてね。今から自宅に来て欲しい、といわれたんです。何事かと思って行ってみたら“実は……”と、そこで初めて町子先生が亡くなったことを知らされました。そりゃもう驚きましたよ」
と、「サザエさん」のテレビアニメを担当するフジテレビ編成部の久保田栄一企画担当部長はいう。
「サザエさん」「いじわるばあさん」などの作品で広く人々に親しまれた漫画家の長谷川町子さんが、平成4(1992)年5月27日、東京・世田谷区の自宅で冠動脈硬化症のため死去した。72歳だった。
その死は6月30日、姉の毬子さん(74)の手で多磨霊園に納骨されるまで、ほぼ1カ月も伏せられたままだったが、
「公表を遅らせた理由は、あくまでも先生のご遺言であるということだけで、私にもよく分かりません。ご本人は非常な照れ屋でしたから、おそらく亡くなってすぐに大騒ぎされるのが嫌だったのでしょう。そのため社に戻ってからも、社長と朝日新聞の担当者に連絡した以外、誰にも伝えなかったんです」(久保田氏)
美人でおとなしい女性
大正9(1920)年、佐賀県多久市に三人姉妹の次女として生れた長谷川さんは、少女時代を福岡市で過ごす。14歳の時、元三菱炭鉱の技師だった父親が亡くなり一家で上京。山脇高女(現・山脇学園高校)在学中に田河水泡氏(1989年没)に弟子入りするが、やがて故郷の福岡に疎開し、西日本新聞社の絵画部に勤めた。
同社の記者だった柳猛直氏によれば、
「当時の絵画部は、戦後の抽象画の大家である宇治山哲平氏(1986年没)がキャップを務め、彼女はその下でルポルタージュの挿絵やカットなどを描いていました。美人でおとなしい方でしたね。召集された知人のために、日の丸に虎の絵を描いて欲しいと頼むと、可愛らしい張子の虎を描いてくれたりした。編集局の中には、そんな長谷川さんに惚れて、女房と別れても一緒になるという者もいましたよ」
終戦と同時に西日本新聞社を退社するが、昭和21(1946)年、同社から「夕刊フクニチ」が創刊され「サザエさん」の連載がスタート。人気は抜群で、他の夕刊紙を圧倒した
物静かだが辛辣な一面も
その後、長谷川さん一家はふたたび上京。毬子さんとともに「姉妹社」を設立して、初版2万部で「サザエさん」第1巻を出版した。
「ところが、昭和24(1949)年から朝日新聞に連載が移ることになり、そのころフクニチの東京支社にいた私は、本社から長谷川さんを引き留めるよう命じられた。しかし、彼女は原稿料の値上げを要求し、どうしても朝日に移るといって譲りませんでした。こちらの東京支社長も『サザエさん』はウチで育てたんだから、とかなり強引な説得をしたんですが、そんなことをいわれる筋合いはない、と突っぱねられましたね。まだ連載中なのに、マンガにその支社長の実名を出してからかったりもした。物静かな人でしたが、なかなか辛辣なところもありました」(前出の柳氏)
作品がテレビ化された場合も殆ど口は出さなかったが、どこかで原作を超えては困るという思いがあったようで、
「たとえば、サザエさんに星野知子を起用します、と伝えた時も、なるほど、8頭身のサザエさんもあるのね、といっていたし、青島幸男氏の『いじわるばあさん』についても、あれは私のいじわるばあさんではありません。青島さんの青島ばあさんです、とおっしゃっていた」(フジテレビ関係者)
一種の天才だった
国民的キャラクターの生みの親でありながら、徹底したマスコミ嫌いでも有名だった。人付合いもほとんどなく、晩年は毬子さんと2人、自宅で野良猫や小鳥の世話に明け暮れた。
平成3(1991)年6月、日本漫画家協会・文部大臣賞の表彰式が、公の席に姿を見せた最後となった。
「一種の天才でした。天から授かった才能があまりに大きすぎて、随分過酷な人生を送ったように思いますね。一生独身だったし、精神的にも肉体的にも苦しい連載を続けなきゃいけなかった。本人も、何度もやめたいと悩んだようです。以前、彼女は胃潰瘍で東京女子医大に入院したことがあったんですが、手術をした中山恒明先生によれば、実はあれはガンだったらしいんです。本人は知らずに退院したみたいですね。もっともあれから再発することもなく、この年まで長生きされたんだから、本当に早期のガンだったんでしょう」(漫画家の加藤芳郎氏)
賑やかなサザエさんのイメージとは裏腹に、ひっそりとこの世を去った。
デイリー新潮編集部
