広岡達朗氏が今だから語る「江夏豊」のこと 「俺が指導していたら、絶対にあんな事件は起こさせなかった」
シーズン401奪三振、両リーグでのMVP獲得などの大記録を残し、「プロ野球史上最高の左腕」と評される江夏豊氏。その江夏氏が78歳の誕生日を迎えた5月15日、『江夏の遺言』(江夏豊・松永多佳倫の共著、小学館刊)を上梓した。同書では「オールスター9連続奪三振」「江夏の21球」など、球史に残る名場面を振り返ったほか、各球団での衝突と軋轢の真相、さらには引退後に起こした「過ち」からの再起の日々を赤裸々に明かしている。
【写真を見る】1982年・プレーオフで日ハムの江夏を攻略し、優勝した瞬間の西武
「球界のヒール役」として鮮烈な印象を残した名投手を、同時代に接してきた野球人たちはどう見ていたのか。
シリーズ第5回は、1970年代後半から1980年代中盤にかけてヤクルト、西武で監督を務め、4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成した名将・広岡達朗氏(94)。1984年には日本ハムから"優勝請負人"江夏豊をトレードで獲得して3季連続日本一を目指したが、チームの方針に馴染もうとしない大ベテランをシーズン途中から二軍で塩漬け状態にして、最終的には同年オフに引退に追い込んだ(その後、江夏氏はメジャーリーグに挑戦)。
江夏氏は『江夏の遺言』で広岡氏との相剋を振り返っているが、指揮官の目に「孤高の大投手・江夏豊」はどう映っていたのだろうか。42年の年月を経て、広岡氏が真相を語った。(文/松永多佳倫 文中敬称略)
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大きな組織には必ずといっていいほど生まれる「犬猿の仲」。とりわけ我が強い者の集団であるプロ野球球団であればなおさらだろう。江夏豊にとって"犬猿の相手"とは、まさに広岡達朗にほかならない。逆もまた然りだ。それでも広岡は悔しそうに語る。
「あいつは、本当にもったいない。俺が面倒を見ていれば、あんなことにはならなかった。もっと凄い選手になっていただろう」
広岡は江夏と衝突しながらも、その能力を認める「理解者」でもあった。
「1983年のオールスターの時だったけど、あいつはベンチで俺(全パ監督)の隣に来て、いろいろ質問してくるんだ。『9回裏二死満塁、一打浴びればサヨナラ負けの場面でフルカウントになったら、ピッチャーに何を投げさせますか?』っていう質問は面白かったな。俺は『決まっとる。思い切り腕を振ってど真ん中だ』って答えると、あいつはニヤッとしとったわ。きっと俺を試していたんだろうな」
ピッチャーにとてつもない重圧がかかる場面で「コースに投げろ」と言ったところで、投げられるはずがない。それなら悔いのないボールをそれも思い切り腕を振って投げさせる──。5年連続で最優秀救援のタイトルを獲得した江夏は、広岡の答えを聞き"このおっさんは、投手心理をわかっとる"と感心したという。
そのオールスターではこんな会話もあったという。
「『お前、オフの日はどう過ごしとる?』と尋ねると、江夏は『本を読んでいます』と答えた。『どんな本を?』と訊くと、『基本は小説です。ついこの間まで藤沢周平を読んでましたが、今は山崎豊子の新刊(1983年夏に刊行された『二つの祖国』)を読み始めたところです』と言うから"ほお〜っ、意外だな"と思ったね。俺も本好きだから、あいつを見る目が変わった」
1982年プレーオフで江夏を攻略
対戦相手としての江夏といえば、1982年に西武と日本ハムが争ったプレーオフの印象が強いという(当時のパ・リーグは前後期制で、前期優勝が西武、後期優勝が日本ハムだった)。
「選手としては晩年を迎えていたとはいえ、投球術は凄かった。ボール1個分の出し入れでバッターを抑えていた。ストレートは142〜143キロだったと思うけれど、今(のスピードガン)だったら150キロ近く出ているんじゃないか。
(西武打線の主軸だった)田淵(幸一)や大田(卓司)なんて、シーズン中にまったく打てなかった。だから後期シーズンを捨てて、プレーオフのためにずっとビデオで研究させていた。ある日、モニタールームから田淵たちが出てきて『監督、これだけ研究したから江夏を打てます』と言ってきたけれど、『お前らじゃ打てん』と返した。みんな憮然とした表情だった」(このエピソードはシリーズ第3回で田淵も語っている)
プレーオフ第1戦では0対0の8回裏に江夏が登場。西武打線はプッシュバントで江夏に揺さぶりをかけ、一挙6点を入れて攻略した。この勢いのまま西武は日本ハムに勝ち、日本シリーズでも勝って日本一の栄冠を手に入れる。この試合は江夏の守護神神話が崩れるきっかけであるとともに、西武黄金時代の扉が開いた瞬間でもあった。
「あいつも清原も、若い頃に出会った指導者が悪い」
1984年には同じユニフォームを着ることになった二人だが、ルールと規律を重視する広岡の"管理野球"と、豪放磊落を地で行く江夏はすれ違いを重ねていく。広岡との衝突について、江夏は『江夏の遺言』でこんなエピソードを明かしている。
〈5月終わり頃の大阪遠征に東京から西武グループのお偉いさんが観戦に訪れるということで、西武の定宿・新阪急ホテルで首脳陣と選手を交えた朝食会が開かれた。(中略)朝食会場に着くと、空いている席が広岡のおっさんの隣だけ。仕方ないので隣に座り、ボソッと呟いた。
「監督、なんで玄米を食べているのに痛風になるの?」──。
青白い能面がみるみる赤くなっていき、おっさんは食事の途中なのに席を立ってしまった。別にお偉いさんの前でおっさんに恥をかかせるつもりはなく、思っていたことが口に出ただけだ。選手たちに玄米を推奨しているくせにおっさん自身が痛風で苦しんでいることは界隈で有名で、選手を厳しく食事規制しておきながら自分は部屋で酒を飲み、外で肉を食べているのがずっと腑に落ちなかった。
(中略)それにしても、人の顔はあそこまで赤くなるものなのか……。今思い返しても驚いてしまう(笑)〉
江夏は「(広岡に)恥をかかせるつもりはなかった」と語るが、がんじがらめの"管理野球"に萎縮するチームメートを見て、"言わずにはいられなかった"というのが本当のところだろう。
広岡もこの場面のことを覚えていた。またも顔を真っ赤にして怒るのでは……と不安になったが、御年94の元名将は淡々と振り返った。
「まさか、あのタイミングで(俺の)痛風のことを言われるとは思わなんだ。同じテーブルに本社の役員連中もいたので、俺も格好がつかなくなって席を立った。
もっとも、相容れない監督や先輩に何か言ってやりたい気持ちは分からなくもない。俺も(巨人の)新人の頃、逆転負けした試合後に新聞記者に『ファースト(川上哲治)があんなに下手で、野球ができるか』って口走ったのと同じだ。それから俺は川上哲治にずっと嫌われた。自信のある選手は、それだけ元気があるってこと。
ただ、あいつを二軍に落としたのは感情的な理由ではない。明らかに力が落ちていたから。来季は通用しないっていうのは、球界内で言われていたからな」
もはや「痛風批判」に遺恨はないようだが、広岡にはどうしても江夏への複雑な思いは拭えないという。引退後の"過ち"のことだ。
「春季キャンプのとき、帽子は被らないわ、練習には遅刻するわ、どうもならんかった。あいつも清原(和博)も、若い頃に出会った指導者が悪い。俺がその頃に教えとったら、絶対にあんな事件なんて起こさせなんだ。あれほどの才能に恵まれたやつなんて、そうそういない。神から選ばれし者だったのに……。それが悔しくて、悲しくてたまらない」
自分が認めた才能が間違った方向に行ってしまうことほど、指導者として悲しいことはないのだろう。名将・広岡達朗らしい「江夏評」である。
【第6回へ続く】
〈プロフィール/松永多佳倫(まつなが・たかりん)〉
1968年生まれ。琉球大学卒業。出版社勤務を経て沖縄移住後、ノンフィクションライターに。プロ野球界の重鎮のインタビューをはじめ、スポーツ取材に定評がある。『怪物 江川卓伝』(集英社)、『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)、『沖縄を変えた男 栽弘義』(集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』(KADOKAWA)など著作多数。5月15日に江夏氏との共著『江夏の遺言』(小学館)を刊行した。
