松本典子

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昨年、活動を再開

 歌手・タレントの松本典子(58)は2025年、デビュー40周年を機に芸能活動を再開し、歌の世界へと戻ってきた。1984年に、応募18万人超の「ミス・セブンティーンコンテスト」グランプリ獲得。翌85年、「ポスト松田聖子」として華々しくアイドル歌手デビューを飾り、一世を風靡した。これまでの、芸能活動を改めて振り返ってもらった。(全3回の第1回)【福嶋剛/ライター】

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 もともと内気で、学校でも目立たない存在だった松本。だが松田聖子に憧れ、高校時代からオーディションを受けはじめ、16歳の時、第5回「ミス・セブンティーンコンテスト」で応募総数18万超の中から網浜直子とダブル受賞を果たし、グランプリに輝いた。

松本典子

「当時、私は懸賞マニアでいろんなところにハガキを出してプレゼントに応募することにハマっていたんです。『ミス・セブンティーンコンテスト』も姉が応募したんですけど、私は副賞のビデオデッキが目的で、歌手デビューや映画出演の方は、そこまで深く考えてはいませんでした。

 そもそも両親が厳しくて芸能のお仕事には反対でしたし、学校の中でも目立たないような生徒で、人前で歌うなんてしたこともありませんでした。優勝した時、引き返せなくなってしまい、『どうしよう』という感じでしたね。翌日にはいろんな新聞に取り上げられて、『もう後戻りはできない』と分かって、雑誌の撮影とか歌の話とか息つく暇もないくらいの毎日が始まりました」

 レコード会社はCBS・ソニーに決まり、松田聖子の「松」と「子」、そして当時のソニー社長・大賀典雄氏の名から「典」という一文字をとって松本典子という芸名が付けられた。松田聖子を発掘した若松宗雄氏がプロデュースを担当し、デビューに向けて着々と準備を進めた。

「何も分からないまま芸能界に飛び込んだので、とにかくその日、その瞬間、言われたことを一生懸命やるだけでした。衣装も髪型もメイクも『これでいこう』と言われたら、素直に受け入れてやってきました。自分の意見を言えるようになったのは、ずっとあとのことです」

 デビューシングルは「春色のエアメール」(1985年3月21日)に決まった。作詞作曲は「DOWN TOWN」「う、ふ、ふ、ふ、」など数々のヒット曲で知られるEPOが書き下ろした。またB面(カップリング)は、名曲「あなた」で知られる小坂明子が作詞作曲を手がけ、アレンジは鷺巣詩郎が担当。がっちりと脇を固めたが、肝心の松本は不安でいっぱいだった。

「デモテープはEPOさんと小坂さんが歌っていて、それを聴いてプレッシャーも感じましたし、始めはうまく歌えませんでした。もう全然声が出なくて『私ってこんなに歌えないんだ』って。落ち込みながらも何度も何度も録り直しをした思い出があります。ただ私って昔から負けず嫌いな一面もあって、ディレクターさんやスタッフさんに認めていただけるように、必死に何度も歌って自分のものにしようと頑張っていたと思います」

豪華な作家陣

 松本の曲は毎回、豪華な作家陣を起用することでも注目が集まった。サードシングルの「さよならと言われて」では作曲を呉田軽穂(松任谷由実)、アレンジを松任谷正隆が担当し、さらに6枚目「儀式(セレモニー)」は中島みゆきが作詞作曲を手がけた。他にも来生たかお、尾崎亜美、矢野顕子、4枚目のシングル「虹色スキャンダル」では、デビュー前の久保田利伸が作曲とコーラスを担当している。

「よく覚えています。まだ久保田さんがデビューされる前だったと思うんですけど、初めてお会いして、デモテープを用意していただきました。今まで歌ったことのない曲調で、最初は心配でした。2年目以降はスタッフのみなさんが、私のイメージを変えようとしてくださっていたんだと思うんですけど、私自身、対応しきれなかったのかなって。

 今でも覚えているのは作詞家の麻生圭子さんとの思い出です。麻生さんが作詞した曲のレコーディングの時は、いつもスタジオに来てくださって、私の横で優しく歌のアドバイスをしてくれました。私が歌いにくいところを見つけると、その場で言葉を変えて歌いやすくしていただいたり、今振り返っても本当にあの頃は恵まれていたなって思います」

 新曲が完成すると北海道から九州まで全国を飛び回るキャンペーンが始まった。

「本当に忙しかったのですね。朝、例えば大阪とかにいて、お昼に九州に行って、で、また東京に戻ってきて空港で荷物を交換して、そこから北海道に入ったとか、そういうことはよくありました。地方に行ったら、テレビからラジオまで“生放送ジャック”というのをやって、『明日キャンペーンがあります』と宣伝して、レコード店を回るんです。

 スケジュール帳を毎回コピーしてもらって、自分が今どこで何をしているのかをちゃんと把握できるようにしていました。キャンペーンではいつも同じセリフばかり言っていたので、やっていくうちに『自分はどこにいるんだろう』って思うこともありましたね。

 ホテルに戻ると翌日のキャンペーン用の色紙が山積みで置かれていました。キャンペーン先の景色を見たり、おいしいものを食べる暇もなく、ずっと色紙に向かってサインを書いていました。機械みたいにならないように心を込めて書くことだけは、頑張ってやっていたと思います」

アイドル豊作の年

 1985年はアイドル豊作の年と言われ、中山美穂、南野陽子、斉藤由貴、浅香唯、本田美奈子など各社が熾烈な争いを繰り広げていた。

「浅香唯ちゃんや南野陽子ちゃんのラジオにも出させていただきましたね。きっとスタッフさんやテレビの前のみなさんは、ライバル同士みたいなイメージを持っていたかもしれません。でも、あの頃は歌番組や地方でのお祭り、水泳大会とかいろんな場所で一緒になる機会も多くて、みんなでバス移動とかになると車内はとってもにぎやかで楽しかったですよ」

 その年、松本は第27回日本レコード大賞新人賞を始め、第16回日本歌謡大賞放送音楽新人賞、'85FNS歌謡祭・音楽大賞優秀新人賞、第11回日本テレビ音楽祭新人奨励賞などの数々の新人賞を受賞した。しかし、2年目に入るとライバルたちが次々と頭角を現し、松本の人気にも陰りが出てきた。

「賞を取ったというよりも、やっぱりこう、色々恵まれてやってこれたんだと思います。1年目は、多分、自分のことで精一杯で賞レースに勝たなきゃなんて考える余裕もなく、とにかく自分がもっと頑張らなくちゃと思いました。

 2年目になると、他の人たちは歌手としてトップを目指す人、女優さんにシフトする人とか方向性が変わってくるんですけど、『私はどうしたらいいんだろう?』って悩み始めました。レコード会社でも次の新人の方が出てきて、周りのスタッフさんもどんどん少なくなっていきました」

 今まで寝る時間さえなかったのが、急に何もない日も少しずつ増えていき、途方に暮れた。

「辛かったですね。今みたいに携帯電話があったらすぐにでも親に電話していましたが、それもできません。辛い気持ちを誰にも言えず、布団をかぶって泣いたり、目的もないのに中央線で青梅まで行って駅でボーっとした後に家に戻ったりしたこともありました。自分はこれからどうやっていけばいいのか光を見出せませんでしたね」

 そして、芸能生活3年目を迎えた1987年に志村けんさんとの出会いにより、大きな転機が訪れた。

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 第2回【「水着やレオタードのコントはちょっと恥ずかしくて…」松本典子、楽屋で直談判 志村けんさんの“答え”とは】では、松本が志村けんさんとの思い出を語っている。

松本典子(まつもと・のりこ)
1968年1月30日、群馬県出身。84年7月、「第5回ミス・セブンティーンコンテスト」で網浜直子とダブル優勝を果たし、芸能界入り。85年3月21日、1stシングル「春色のエアメール」で歌手デビュー。87年から92年まで「志村けんのだいじょうぶだぁ」(フジテレビ系)にレギュラー出演し、コメディエンヌとして人気を博した。92年、プロ野球選手の笘篠賢治氏と結婚し、3人の息子をもうける。結婚後、長らく芸能活動を休止していたが、2025年に芸能活動を再開。現在は同期の芳本美代子、網浜直子と3人でユニットID85を結成し、ライブ活動を行う傍ら、子育て支援員として保育園にも勤めている。

福嶋 剛
ライター。1971年生まれ。TV局映像編集、ロケーションコーディネーター、音楽サイトの編集長、ニュースサイトの記者などを経験。ベテランアーティストや元アイドルのインタビューをはじめ、イベントの進行役などエンタメを中心に活動中。

デイリー新潮編集部