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講演会や文筆業など幅広く活躍されてきた、エッセイストの海老名香葉子さん。東京大空襲で兄以外の家族6人を亡くし、18歳で初代林家三平さんと結婚、林家一門を大黒柱として支え、2025年12月24日に92歳で逝去されました。そこで今回は、作家・ノンフィクションライターの瀬戸内みなみさんが各界著名人の人生に迫った連載を書籍化した『わが人生に悔いなし』から一部を抜粋し、海老名さんの言葉をお届けします。

【写真】2014年「時忘れじの集い」でスピーチをする海老名香葉子さん

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アメリカが憎かった

1988年、九代目林家正蔵を襲名する前の長男・こぶ平がテレビの仕事でニューヨークへ行くことになった。

「家族みんなが行きたいといい出しまして。安い切符を買って、孫も連れて行ったんですよ」

アメリカが憎かった。頭上高く飛んでいくB29を見上げて、睨みつけたこともある。戦後の東京を闊歩(かっぽ)するアメリカ兵を見ても、悔しくてたまらなかった。

進駐軍がばらまくチューインガムを友だちがくれたことがあった。お腹が空いていた香葉子は思わず口に入れたが、ああおいしい……と思ったとたん、情けなくなってペッと吐き出した。足で踏みつけて、一生ガムなんか食べるものかと心に誓った。

「ニューヨークに滞在中、8月15日を迎えました。うちでは必ず黙祷(もくとう)を捧げることになっています。このときも黙祷をして、それからお昼ごはんに出かけました」

憎しみの感情が解けるとき

レストランで、近くのテーブルに座っていた男性が新聞を読んでいた。

「お母さん、アメリカの新聞も8月15日を大きく取り上げてるわよ」


『わが人生に悔いなし』(著:瀬戸内みなみ/飛鳥新社)

長女の美どりがそういって立ち上がり、その男性に話しかけた。母は戦災孤児だった、といったのだ。

「お節介ですよねえ。ただ戻ってきた娘がいうには、その方は真珠湾で負傷したのだそうです。気がつかなかったのだけど、片足が義足でした」

食事が終わって彼は立ち上がり、セルフサービスの食器を片付けると、すっと香葉子の脇に立った。そして帽子をとって胸に当て、深々と頭を下げたのである。

「びっくりしてどうしていいかわからなくて、慌てて立ち上がって、どうも、とだけいいました。そのとき気がつきました。悪いのは戦争なんだと。この方も戦争で傷を負ったのだ。そう気づいたとき、憎いと思っていた感情がすっと消えたんです。

時代は変わった、と思いました。恐れ多いことですが、わたしは昭和天皇も嫌いだったんです。親戚の家を転々としていたとき、新聞に大きく載っていた天皇ご一家の写真をたまたま見たことがありました。ご一家は仲睦まじいご様子で、皇后さまは福々(ふくぶく)しく太っておられて……。わたしにだって優しい両親や、兄弟がいたのに、と、羨ましくて仕方なかったんです。陛下がひとこと、戦争をやめろ、とおっしゃっていれば、わたしの家族もきっと死ななくてすんだのに。そう思うと悔しくて。

朝日新聞でエッセイを連載していた30年ほど前に、お読みになった三笠宮さまご夫妻に招かれて戦争体験をお話ししたことがあります。子どもたちが大騒ぎしましたよ。お母さんが昭和天皇が嫌いだなんて話したら大変なことになる、捕まっちゃうよ、なんていうんですけど(笑)、せっかく機会をくださったんだから本当のことをいってくる、といって出かけました。

妃殿下は涙を流し、殿下は『いいお話をよくぞ聞かせてくださいました』といってくださいました。いい話のはずがないですよね。でもそのとき、皇室憎し、の感情が消えました。

今上(現上皇)陛下はわたしと同じ年齢です。その陛下は鎮魂のために、各地をああやって回ってくださっている。ありがたいことだと思います」

個人で東京大空襲の慰霊碑と塔を建てる

ずっと長い間、東京大空襲の慰霊碑も記念館もないことを残念に思っていた。3月10日だけで10万人以上の民間人が犠牲になったのだ。

40年以上も前から、厚生省(当時)や東京都に要望や陳情を出していたが、まったくどこも動かない。なぜなのかはわからない。

国も都も、結局なにもしない。

「とうとう、だったら自分で建てなきゃダメだと心を決めました。それには下町を見下ろせる上野の山が一番だと思い、公図を見たんです」

半分が東京都、もう半分が寛永寺の敷地である。その山の真ん中に16坪の空き地があった。これくらいの土地ならわたしでも買えるかもしれないと頼みに行った。

「『ここに東京大空襲で犠牲になったひとたちの供養塔を建てたいのです、お願いします』といったら笑われました。海老名さん、もう少し勉強しなきゃダメですよって。そこは天海僧正(寛永寺創建者)の毛髪塔だったんです。

それでも都に出した請願書のコピーを置いて帰りました。

そうしたら3日後でしたか、寛永寺の浦井正明先生からお電話をいただいたんです。『無償で土地を提供します。あなたの悲願の塔を建ててください』と。こんな幸せなことがあるだろうかと思いました」

驚いたことに、それから1週間も経たないうちに東京都からも連絡があった。記念碑建造の許可が下りたのである。

「嬉しくて頭がおかしくなりそうでした。でもそんな大きなものを二つも建てるお金なんて、わたしは持ってない。子どもたちに、『どんなことがあっても建てたい。土地を売ることになるかもしれない』と相談しましたら、大賛成してくれました」

慰霊会「時忘れじの集い」

子どもたちの協力もあり、幸い土地を手放すこともなく、2005年に慰霊碑と塔は完成した。寛永寺側に慰霊碑「哀しみの東京大空襲」、東京都の方には平和の母子像「時忘れじの塔」。以来、毎年3月9日に慰霊会「時忘れじの集い」を行っている。

「うちの家族だけでお参りしようと思っていたのですが、新聞で取り上げていただいて、たくさんのひとが来てくださるようになりました。最初は100人、そのうち300人、500人、昨年はなんと1500人です。

毎年お経を上げてくださる浦井先生からは、『戦争体験者はどんどん高齢化して亡くなられるから、慰霊祭は年々寂しくなることを覚悟しなくてはいけませんよ』といわれていたのですが、参加者は増えているんです。ニュージーランド、イギリス、カナダからいらっしゃる方もいるんですよ。

正直申しまして、大変です。お金がかかりますから(笑)。テントを張って椅子を並べて、寒い時期ですからボイラーも焚かなくちゃいけない。だから一所懸命働かなくちゃ、江戸っ子ですもの。

でもね、『参加できませんが、お線香代にしてください』と、いろんな方が五百円硬貨を貼り付けて送ってくださるんです。五百円だったり千円だったり、金額の多いひとはいませんが、これは気持ちの問題ですよね。

当日はうちの家族がお話をしたり、歌をうたったり。そしてお土産に桜色の紙袋を配ります。みなさんに、それを持って歩いてください、カバンの中に入れないで、とお願いします。

きれいですよ。『東京大空襲』と書かれた桜色の紙袋を一斉に持つと、辺りがピンクに染まります。するとなんの集まりですか、と尋ねてくださる方もいる。

100年の記念日まで続けたいと思っています。あと、28年。まだまだわたしも稼がなくちゃいけません。大変だわ(笑)」

※本稿は、『わが人生に悔いなし』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。