「プペル」続編が“爆死”と言われるワケ 西野亮廣の「成功モデル」、2度目には通用しないという現実
前作は大ヒット
お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣が製作総指揮・原作・脚本を務める「映画 えんとつ町のプペル〜約束の時計台〜」が3月27日から公開された。大ヒットした前作「映画 えんとつ町のプペル」の続編ということで注目されていたが、いざ蓋を開けてみれば、3月27〜29日の国内映画ランキング(全国週末興行成績・興行通信社)では5位、興収1億2200万円という結果に。前作から大幅に数字を落としていて、ネット上では“爆死”と言われている。なぜ「プペル」の続編は苦しい状況に陥っているのか。【ラリー遠田/お笑い評論家】
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【写真】「なんやねん、この寝方」と思わずツッコミ…西野が投稿した大物芸人
この“爆死”が象徴しているのは、西野亮廣というプロデューサーがこれまで築いてきた成功の方程式が、同じ形では市場に通用しなくなってきているということだ。

前作はコロナ禍という特殊な状況のもとで公開されていた。映画の内容が「逆風の中で夢を形にする西野」という物語ごと消費されたようなところがあった。煙に閉ざされた世界で星を信じる少年の物語は、閉塞感の強い時代状況とも重なっていたし、西野が繰り返し描いてきた「既存の常識を疑い、反対する声に負けず、仲間とともに新しい景色を見る」という自己演出とも美しく接続していた。映画館に足を運んで映画を見ること自体が、作品鑑賞であると同時に、西野の挑戦を支援する参加行動として機能していた。
だが、続編が公開されている2026年は、前作のときとは時代の空気が全く異なっている。社会全体を覆っていたコロナ禍の閉塞感はすでに過去のものとなり、人々が作品に託すものも変わった。かつては、先の見えない不安の中で「信じること」や「夢を見ること」そのものに切実な意味があった。
日常が戻った現在、観客は同じ物語装置に対して、以前ほど素直には感情移入しない。逆風の中で挑戦する姿をそのまま応援したくなるような空気は弱まり、エンタメ作品はよりシビアにそれ自体の中身や新しさを問われるようになった。
つまり、前作では「プペル」という作品と「西野亮廣の挑戦」が重なり合っていたが、続編ではその重なりが成立しにくい。社会が平時に戻ったことで、人々はもはや同じ物語を反復されるだけでは心を動かされない。前作で機能した感動の回路が、そのままでは作動しなくなっている。
また、ビジネス的な観点から見ると、西野の成功モデルが「初回であること」に強く依存していたことも敗因として挙げられる。彼の強みは、単に作品を作ることではない。自分を応援してくれるファンや協力者を集めて、その熱量を購買行動に変えることである。クラウドファンディング、オンラインサロン、配信、講演、SNS、舞台挨拶、関連イベントを接続し、「これはただの商品ではなく、未来への投票である」という意味づけを施す。前作の「プペル」は、その方式が最も鮮やかに機能した例だった。西野が手がける初めての映画作品が公開されるという物語のクライマックスに向かって、人々が心を動かされていた。
最初は「前例のない挑戦」
しかし、この方式は一度目には強いが、2度目以降は効力が落ちやすい。なぜなら、最初は「前例のない挑戦」だったものが、2度目には「成功モデルの再実行」になるからだ。未知のものに対する挑戦は人を熱狂させるが、再挑戦は冷静に値踏みされる。そこにあるのが「革命」ではなく「既存事業の大型案件」に見え始めた瞬間、人々の見る目は厳しくなる。
さらに言えば、西野という人物そのものが、すでに「未知の可能性を秘めた異端児」ではなくなったことも大きい。かつての西野には、芸人なのに絵本を描く、芸人なのにビジネスを語る、テレビ的な文法から逸脱して動く、といった違和感があった。その違和感が賛否を呼び、話題性を生み出していた。
今の西野は、良くも悪くも「西野亮廣というジャンル」として定着している。人々はもはや彼が何をやっても驚かない。驚かないということは、話題になりづらいということだ。純粋にその企画が本当に面白いのか、前より新しいのか、という中身の勝負にさらされている。これはビジネスパーソンとしては成熟して格が上がったとも言えるが、求められる基準が高くなったということでもある。ブランドが確立されると、熱狂的な支持は安定する一方、新規客の流入は減ってしまうからだ。
映画公開前の時期には、告知を兼ねて西野が数多くのバラエティ番組に出演していた。そこでは彼が夢見がちなスキのある発言をするイジられキャラとして扱われることが多く、ほかの芸人からさまざまな切り口でイジり倒されていた。
これはこれで芸人のパフォーマンスとしては文句なしに面白かったのだが、それが視聴者にとって彼の映画を見る動機づけになっていたのかというと、その点にはやや疑問が残る。
西野の芸人としてのキャラクターは、彼の作品の内容とはほとんど重なっていない。彼が芸人としてあまりに優秀すぎるために、バラエティで見せるパフォーマンスが、映画の世界観を逸脱してしまっている。テレビで彼を見て「西野は面白いなあ」と感じた人はたくさんいるかもしれないが、その中で映画を見たいと思った人は果たしてどれだけいたのだろうか。
今回の続編の苦戦が示しているのは、西野亮廣の終わりではない。むしろ、彼がクリエイターとして次の局面に入ったということを示している。挑戦者としての段階はすでに終わっていて、実績あるブランドとしての価値が問われている。
西野がこの先もう一度大きくステップアップすることがあるとすれば、そのカギになるのはかつての成功モデルを繰り返すことではなく、自分自身の勝ちパターンを一度壊して、「西野ならこう来るだろう」という予測を裏切ることだ。彼にいま求められているのは、夢を語る力ではなく、彼にしかできない形で新しい驚きを提供することなのだ。
ラリー遠田(らりー・とおだ)
1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。テレビ番組制作会社勤務を経て、作家・ライター、お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など多岐にわたる活動を行っている。お笑いムック『コメ旬』(キネマ旬報社)の編集長を務めた。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)など著書多数。
デイリー新潮編集部
