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「なんだか風邪っぽいかも」と、いつもの風邪薬を手に取る。ふと箱の裏に目をやると、「次の人は服用前に医師、薬剤師又は登録販売者に相談すること」に続いて「妊娠」の二文字が……さて、この薬は飲んでいいのか……。

実は、その迷いには明確に答えづらい、というのが現実のようです。

科学誌『Nature』は2026年2月、妊娠中の医薬品をめぐる深刻な“研究空白”を指摘する記事を掲載しました。複数の専門家への取材をもとにまとめられたもので、「妊婦を守るための除外が、逆に妊婦を危険にさらしている」という逆説を浮かび上がらせています。

「妊婦に薬を飲ませてはいけない」という常識の起源

Natureによれば「妊婦が薬を避けるべきだ」という感覚の根っこには、1950〜60年代に起きた歴史的な医療事故があります。

その当時、「サリドマイド」という薬が46カ国で市販されていました。用途はつわりの治療。ところが、この薬は妊婦向けに一度も試験されていませんでした。間もなく、手足が短い、あるいは手足のない状態で生まれる赤ちゃんが急増しはじめ、1960年代初頭には1万人以上の子どもに先天性障害が確認されて、サリドマイドは市場から撤退しました。

この事件が、その後の医薬品規制を大きく塗り替えます。1964年のヘルシンキ宣言では、妊婦が「脆弱な集団」として分類され、子どもや重度の認知障害を持つ人たちと同じカテゴリーに置かれました。1977年にはアメリカの規制当局が、妊婦だけでなく「妊娠可能な女性」全員を臨床試験から原則排除する方針を定めます。

つまり、「妊婦は危ないから試験から外す」ということ。その判断が、60年以上たった今も生きています。 もっとも過去10年間で制限の一部は緩和され、世界保健機関(WHO)は妊婦は「脆弱」ではなく「複雑」な状態にあるとみなし、治験にも可能な限り参加させるべきだと述べています。

しかし事態は未だ進まず、2008年から2023年までのアメリカ薬物試験の分析では、妊婦を被験者に含めた試験は1%未満だったそう。

データがないまま、それでも薬は使われ続ける

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さて、問題はここからです。

Natureが引用するデータによれば、アメリカでは妊婦の90%以上が何らかの薬を服用しています。それにもかかわらず、吐き気止めや抗炎症薬をはじめ、この10年で承認された新薬の大部分は、妊婦に対する試験が行なわれず、安全性・有効性が不確かなままです。

医師や公衆衛生当局が判断材料にしているのは、動物実験、非妊娠者への試験、そして「市場に出回ってから妊婦が使った」観察研究といった間接的な証拠です。米国食品医薬品局(FDA)の承認薬に関する調査では、承認時点で妊婦への安全性が不明な薬について、その安全性評価が確立されるまでに平均27年かかることが示されています。

要は、多くの妊婦は不確かな情報のまま、薬を使うか否かを選ぶしかなかったのです。

「何もしない」は安全ではない

ここで見落とされがちな逆説があります。ロードアイランド州プロビデンスにあるブラウン大学の統計学者アリッサ・ビリンスキーさんは、こんな指摘をしています。

妊婦にとって、リスクは薬の服用から生じると考えてしまうが、むしろ何もしない方がもっと危険な場合がある。試験をしないことで、最悪の事態が両方起きる可能性もあるのです。

ビリンスキーさんのチームによるシミュレーションは、その現実を鮮明に示しています。

前述のサリドマイドのケースで、200人の妊婦を対象にした臨床試験が行なわれていたとします。推計では33人の赤ちゃんに悪影響が出てしまう一方、試験なしで市場に出回ったことで1956〜1962年のあいだに約1万件以上の先天性障害が実際に起きました。仮に試験さえ行なわれていれば、その99.6%にあたる約8,000件は防げたと結論づけています。

『医師に相談してください』は、医師に多くの情報があるときにはよい助言です。でも、何十年にもわたる研究への投資不足の代わりにはなりません。

「妊婦は試験に参加したがらない」は誤解だった

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とはいえ、誰だって薬の試験に大切な赤ちゃんを身ごもったまま協力するのは怖いはず。でも、変化の兆しはあります。

Natureが取材したユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの産科医で、母体胎児医学の専門医でもあるアンナ・デイヴィッドさんは「妊婦は試験に参加したがらないというのは誤解。十分な情報が提供されれば同意でき、多くの人が積極的に参加を希望する」と話しています。

また、「胎児の健康を試験中に評価できない」という思い込みも同様で、胎児医学の観点では日常的な健康状態の評価は可能だと言います。

それでも製薬会社は慎重です。悪い結果が出たときの風評リスクを恐れているからで、保険適用の難しさも加わります。ある試算では、妊婦向け薬の開発には、他の治療領域と比べて最大570万ドル(約8億5000万円)の追加費用がかかるとされています。

しかし、エボラウイルスやCOVID-19に対するワクチンなど、妊婦を対象にした実臨床データが安全性のエビデンスを高め、妊婦を試験に含めることに対する考え方を変えていった事例も生まれているとのこと。

それぞれの可能性とリスクを推し量れば誰の言い分も納得できるところがあり、一概に結論づけられないでしょう。ですが、こういった“空白”があることを知り、それをどうすれば変えていけるのかを考えること、それを推し進めるテクノロジーを支えることも、改めて大事だと思わされます。

さて日本ではどうか。かかりつけ医との相談はもちろんのこと、小児・周産期・母性医療を専門とする国立成育医療研究センターが「妊娠と薬情報センター」を設けて情報提供などに努めていました。

妊娠中に医薬品を使用すること、使用したことについて不安がある場合はQ&Aページで調べられる他にも、カウンセリングや外来相談が可能とのこと。「授乳中に安全に使用できると考えられる薬」といったページもありました。

「誰もが健やかに」という願いの実現に、私たちはまだ道半ば。より良い未来のために、できることを重ねていきたいものです。

Source: Nature, 国立成育医療研究センター

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