顔も手足も「ビフテキのように」焼けた零戦搭乗員…死の淵をさまよった男の生死を分けた「操縦操作」

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私は戦争体験を持つ多くの元パイロットへインタビューを重ねてきたが、乗機が撃墜され、あるいは墜落したときの話ができる人は多くない。言うまでもなく、飛行機が墜ちることは、大抵の場合、死に直結するからだ。生還した人は、一種の臨死体験をしたとも言えるが、生死を分けたのは果たして何だったのか。ギリギリのところでの無意識の操縦操作で助かったと思われる例や、駆け付けた味方機に間一髪のところで助けられた例もあって、単に「運がよかった」の一言では片づけられないことのようである。ここではそんな、死の淵から生還した男たちのエピソードを、3回に分けて紹介する。今回はその1回目である。

目も開けていられないし、息もできない

「敵機が、下から撃ち上げてきました。曳痕弾が飛んでくるのがはっきり見えたけど避けようがない。カンカンカン、と機銃弾が命中する音が聞こえ、『やられた!』と思ったとたん、煙とガソリンが操縦席に噴き出してきて、次の瞬間、バン!と爆発しました。炎で目も開けていられないし、息もできない。顔に吹きつける炎を避けようと機体を横滑りさせてみたけど、全然効果はなかった。しかし、生きる本能でしょうかね、目も見えないのに、もう海面だ!と思ってエンジンのスイッチを切り、機首を引き上げたところがドンピシャリ、海面でした」

と語るのは、元零戦搭乗員・小町定(飛曹長/1920-2012。戦後、ビル経営)である。小町は、昭和13(1938)年、水兵として海軍に入り、部内選抜の操縦練習生を経て戦闘機パイロットになった。空母「翔鶴」に乗組み、真珠湾作戦やインド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加、さらにラバウルやトラック島上空の邀撃戦をくぐり抜けてきた歴戦の搭乗員だった。

昭和19(1944)年6月15日、サイパン島に米軍が上陸を開始、6月19日、岡本晴年少佐の率いる第二五三海軍航空隊零戦13機がトラックの竹島基地を発進してサイパン攻撃に向かう。小町はそのなかの1機として出撃していた。

トラックからサイパンまでは約600浬(約1100キロ)。航続距離の長い零戦でも、空戦を前提とした無着陸の往復は無理である。発進して飛ぶこと3時間あまり、やがて海の向こうにグアム島が見えてくる。岡本少佐は、ここで燃料補給をしようと、高度を下げて編隊を解き、一列縦隊で着陸態勢に入った。

顔も手足もベロンベロンに

ところがそこはすでに米軍の制空権下にあり、約10機のグラマンF6F戦闘機が遊弋していたのである。情報が乏しく、零戦隊はそのことを知る由もなかった。小町の回想――。

「高度500メートルで解散、一列縦隊になって、一番機・岡本少佐、二番機・栢木(かやき)一男中尉、三番機・私の順で着陸態勢に入りました。まず岡本機が無事着陸し、栢木機がまさに接地しようとしたところでグラマンが上空から降ってきたんです。いま思えば、指揮官はどうして一回り、上空を警戒しなかったのか。

栢木中尉は左腕を機銃弾に撃ち抜かれて重傷を負いました。そのときの私の高度は100メートル足らず。完全に着陸態勢に入っていたので失速寸前の状態でした。急いで脚を上げ、フラップをおさめ、機銃の安全装置をはずして戦闘態勢に入りましたが、スピードは急には上がりません……」

被弾し火焔に包まれた小町機は、そのまま海面に突っ込んだ。生死を分けたのは、着水寸前、本能的に操縦桿を引き、浅い角度での不時着水に近い形になったからだった。

小町は、顔と手足に大火傷を負ったが奇跡的に助かり、数日後、迎えの一式陸攻に乗ってグアムを脱出、トラックに帰り、そこから病院船「氷川丸」で内地に送還された。この病院船は、現在、横浜山下公園に係留されている「日本郵船氷川丸」である。

「顔も手足もベロンベロンで、ビフテキのレアぐらいには焼けていました。あんまり痛々しいから『氷川丸』の乗組員が同情してくれて、内地では砂糖がなくて困っているから家族に持って帰りなさい、と砂糖をどっさりくれました。それを土産に帰ったんですが、包帯をぐるぐる巻かれてミイラのような私の姿に、家内が卒倒するぐらいにびっくりして。でも喜んでくれましたよ」

そもそも飛行機は危険な乗り物だった

昭和のはじめ、そもそも飛行機は危険な乗り物だった。戦前の日本で飛行機のパイロットになるには、陸軍か海軍のしかるべきコースに進むのがいちばんの近道だったが、毎年、訓練中に事故で殉職する者が必ず出てくる。海上に不時着水した飛行機の救助に向かった水上機が遭難するなどの二次被害の例もあった。

海軍の航空殉職者の名簿は正確なものが残されている。それによると、年別の戦死者をのぞく航空殉職者数は、大正4(1915)年から15(1926)年までは合計69名、昭和2(1927)年7名、3年11名、4年16名、5年5名、6年19名、7年10名、8年32名、9年51名、10年42名、11年100名、12年53名、13年79名、14年71名、15年107名、16年165名、17年160名、18年308名、19年488名、20年611名、計2408名となっている。

いっぽう、飛行機搭乗員の戦死者数は、支那事変がはじまった昭和12(1937)年293名、13年295名、14年214名、15年257名、太平洋戦争がはじまった昭和16(1941)年203名、17年334名(実際にはもっと多いと思われる)、18年3581名、19年9858名、20年6595名である。

絶対数でいえば太平洋戦争開戦後、特に日本の敗勢が明らかになった昭和18年以降がきわめて多いが、殉職者と戦死者数の割合でいえば、昭和12年が約1:5.5、13年が約1:3.7なのに対し、昭和18年は約1:11.6、19年で1:20.2と、戦況の変化もあるので単純にはいえないが、初期ほど殉職者の割合が多いのがわかる。フライトレコーダーなどない時代、その人たちは、当然ながら自分が墜落したときの模様を語ることはできない。

【後編を読む】<生きたまま「死体安置所」に運ばれた「戦闘機搭乗員」が、エンジン停止の危機から九死に一生を得たワケ>

【つづきを読む】生きたまま「死体安置所」に運ばれた「戦闘機搭乗員」が、エンジン停止の危機から九死に一生を得たワケ