リーゼントで恋愛漫画を持ち込み→編集に笑われ「なめんじゃねえよ」と…『はじめの一歩』森川ジョージ(60)が振り返る下積み時代
高校在学中にマンガ家デビュー、1989年に連載を始めた『はじめの一歩』は現在145巻と超長期にわたって執筆をつづけるマンガ家の森川ジョージさん(60)。
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華々しい実績の裏側で、デビュー後の2作は即座に打ち切りに遭うなど悔しい経験もしてきた。稀代の名作となった『はじめの一歩』が生まれる前からさかのぼり、半生を振り返ってもらった(インタビューは1月に実施)。

35年以上にわたって『はじめの一歩』の執筆をつづける森川ジョージさん ©石川啓次/文藝春秋
デビューから3作連続で打ち切りも……レジェンドマンガ家「森川ジョージ」の半生とは?
累計発行部数1億部を突破する超人気ボクシングマンガ『はじめの一歩』。週刊少年マガジンに第1話が掲載されたのは、1989年10月11日発行の第43号にまで遡る。
それから35年以上、連載を続けている作者の森川ジョージさんの名は世界的にも広く知られており、ボクシング界で最も歴史と権威ある専門誌として知られるアメリカの『ザ・リング』の表紙に井上尚弥のイラストを寄せたこともある。
また、今年4月10日には、世界ボクシング評議会(WBC)の会長が、病気による手術を経て退院した森川さんの回復を願ってレプリカベルトを贈呈した。レプリカとはいえ、WBCのベルトを持っているマンガ家は森川さんだけだろう。
『はじめの一歩』は今年1月に145巻が発売され、現在も継続中。日本漫画家協会の常務理事を務めるなどいまやマンガ界の大御所の1人ともいえる森川さんだが、実はデビューから3作続けて連載打ち切りを経験するなど苦汁をなめてきた。
しかし、いざ『はじめの一歩』の連載が始まると初回から人気に火が付き、2年目には年収1億円を突破。現在は自身が会長を務めるボクシングジムを経営しながら、日々『はじめの一歩』と向き合う。
1966年、東京の足立区で生まれた森川さん。マンガやアニメについての最初の記憶は3、4歳の頃、テレビの再放送で観たちばてつやさんの『ハリスの旋風』(ハリスのかぜ)だ。この出会いが、森川さんの運命を決めた。
「『ハリスの旋風』を観て、マンガ家になろうと決めたんです。4歳の時には、ハッキリと言ってましたよ。マンガ家になるって」
ちばてつやさんの大ファンになった森川さんは、ボクシングマンガの金字塔『あしたのジョー』、剣道マンガ『おれは鉄兵』、プロゴルフを舞台にした『あした天気になあれ』などを読みながら、自分でもマンガを描くようになった。
学校で友人たちに描いたものを見せ、面白かったか、面白くなかったか、感想を書いてもらう。小学生の時から、人気アンケートを取っていた。しかし、評価は気にしなかった。「すべてはマンガ家になるための訓練」と割り切って、ひたすら描き貯めた。
家族で引っ越した越谷市(埼玉県)の中学に入ってもその生活は変わらず、ノートは何十冊にもなった。高校1年生になった頃、過去のアンケートで最も好評だった作品に手を入れて、講談社に持ち込みの電話を掛けた。
リーゼント姿で恋愛マンガを持ち込み、編集者に笑われた
約束の時間に遅れて現れた担当者に、作品を渡す。初めて、プロの意見を聞くのだ。緊張しながら様子を見ていたら、その担当者が噴き出した。
当時、リーゼントでバッチリきめた森川さんが持参したのは、少女マンガのような悲しいラブストーリー。内容ではなく、森川さんの見た目と内容のギャップに驚いて、こらえきれずに笑ってしまったと言われた。
「不良だったわけじゃありません。当時、リーゼントが流行ってたんですよ。でも、その頃、すごい生意気でしたからね。笑われた時は、なめんじゃねえよって思いましたよ」
作品についてのアドバイスは特になく、「早く次の作品を描いて、また持ってきてください」と言われて、帰路に着く。1週間後、その担当者から電話がかかってきた。
「月例賞の選外佳作に入ったよ」
作品を受け取っていた担当者が、なにもいわず、週刊少年マガジンで月に一度開催される「月例賞」に出していたのだ。週刊少年マガジンに売り込んだのは、ちばてつやがずっと連載をしていたから。憧れの存在と一緒の雑誌に名前と自分の絵が小さく掲載されて、「涙が出るほど嬉しかった」と振り返る。
読み切りデビュー後、アシスタント生活を選んだワケ
実は森川さんは中学を卒業したらプロのアシスタントになろうと考えていた。しかし、親から「高校ぐらいは行ってほしい」と言われて、渋々と進学した。だから、「学校の授業なんて必要ない」と、学校でも自宅でも、ひたすらマンガを描き続けた。
2作目は、再び月例賞の選外佳作。3作目は月例賞で入選。そして4作目、より注目度の高い新人賞で、暴走族を描いた『シルエットナイト』が準入選に選ばれ、週刊少年マガジンに読み切り掲載が決まる。
1983年、17歳にして誌面デビューを飾った森川さんは、この受賞を機に華々しい道を……ということではなく、編集部に頼み込んで念願のアシスタントを始めた。我流でマンガを描いていた森川さんは、自分になにが足りないのかをわかっていたのだ。
授業を終えると電車に飛び乗り、マンガ家のもとへ通ってプロの技をどん欲に吸収した。現場で教わったことは家に帰ってからも、学校の授業中もずっと練習した。
「なによりも線が大切なんですよ。何千本、何万本と線を引かなきゃ、いい線を描けるようにならない。練習してる時は楽しかったような気がするな。上手くなっていくのが、手に取るようにわかるから。現場で見たものを反復してできるようになると嬉しいですよね」
学校もアシスタントも休まず通い、反復練習しながら、30ページほどの読み切りを15日ほどで描いた。それは「起きている時間は、ぜんぶマンガで使う」日々だった。
この修業が実り、高校卒業間際に初めての連載が決定。月刊少年マガジンスペシャルで『インサイド・グラフィティー』という作品を描くことになった。
初の連載は「5話で打ち切り」に
ところが、記念すべき初連載は、5話で打ち切りになってしまう。これはさぞかしショックだったのでは……と思ったが、そうでもなかった。
「そういう現実は、アシスタント先でも見ていましたからね。それに、週刊連載のアシスタントをしながらの連載だったので、自分の連載がなくなってもちゃんと仕事は確保しているし、アシスタントを続けながらもっと勉強しようと気持ちを切り替えました」
連載デビュー作『インサイド・グラフィティー』は、思わぬメリットをもたらした。この作品を目にしたマンガ家たちから「けっこう上手い」と評価を得て、「手伝いに来て」とあちこちから声がかかるようになったのだ。
高校を出て上京した森川さんは、家賃2万5000円の風呂なしアパートで暮らしながら、『バリバリ伝説』『頭文字D』のしげの秀一さん、『スーパードクターK』の真船一雄さんなど、そうそうたるプロのもとに出向いた。
ついたあだ名は「ゴッドハンド」
アシスタントとしての学びはすべて自分の血肉になると考える森川さんは、あらゆる依頼に真剣、本気で向きあった。「手伝ってほしい」と連絡がくると、事前にどんな絵を求められているのかを確認。バイクや学校など先方が要望したものを描けるように、徹夜で練習した。マンガ家ごとに絵柄の雰囲気も違うから、現場ですぐに合わせられるように予習もする。
「学校の窓のサッシはどうなっているのかを知りたくて、建築の本を読んで練習していったこともあります。僕は経験も技術も足りないし、お金をいただくのだから、それが当たり前だと思っていました。新しいことを教わったら、帰って反復練習もしました」
サラリというが、森川さん自身もすぐに「自分みたいに予習、復習してくるアシスタントは少ないんだな」と気づいた。もともとそこで働いているアシスタントよりも、森川さんのほうがスムーズに仕事が進むのだ。
ここまで入念に準備してくるアシスタントは希少だ。すぐにマンガ家の間で評判が広がり、引っ張りだこになった。それも、締め切りに追い詰められたマンガ家たちの助っ人として声がかかるようになった。
「30軒ぐらいのスタジオに行きましたね。時間が足りないスタジオに行って、パッと終わらせるのが得意でした。普通なら3日かかるところ、僕が行って1日で終らせるようなことも多かったです」
ついたあだ名は、ゴッドハンド。どこに行っても「上手いね」と絶賛された。しかし、森川さん自身は「不器用」だという。
「僕は絵が上手くない。だから、ものすごい数の予習と反復練習をするんです。それで上手く描けるようになったとしても、器用ということじゃないですよね」
初の週刊連載は「サッカー」がテーマだった
名だたるマンガ家の助太刀をしていた森川さんに再びチャンスが訪れたのは1986年、20歳になる年だ。週刊少年マガジンでサッカーマンガ『一矢NOW』の連載がスタートした。森川さんといえばボクシングというイメージがあり、サッカーは意外だ。なぜサッカーをテーマに選んだのだろうか?
「各少年誌に『どのジャンルのマンガを読みたいですか?』というアンケートがあって、当時、モータースポーツ、格闘技と並んで必ずベスト3に入っているのが球技でした。自分は学生時代、バレーボール部だったけど、球技のなかではサッカーが好きだったんです」
週刊誌の連載には、アシスタントが必要だ。でも、それまでアシスタントを使ったことがないから、勝手がわからない。「年上は緊張するな……」と思い、担当編集者に「できれば同い年か年下でお願いします」と頼んだ。その際に紹介されたのが、当時、江古田に住んでいた森川さん宅のすぐ近くにある日本大学芸術学部に通っていた青年だった。同じ1966年生まれで、学年では森川さんのひとつ下になる。
初日、実力がわからないまま、「こんな感じで」と『一矢NOW』に出てくる学校の絵を頼んだ。その「線」を見て、息をのんだ。
「すごい人が来た……」
アシスタント先で数えきれないほどの「線」を見てきた森川さんは、「生きた線」か「機械的な死んだ線」か、見分けられるようになっていた。生きた線を描ける人はそういない。
「もう手伝わなくていいよ。君の話を聞かせて」
その学生は、自分のスケッチブックを開いて、まだタイトルも決まっていないというマンガの原案について話した。そこに描かれている絵を見て、「彼は天才だ。今の段階でこのレベルなら、10年後、大変なことになる」と確信した森川さんは、自分のマンガに集中するように伝えた。
「いつかこれを描きたいんで、力をつけます」と語っていた学生の名は、三浦建太郎さん。三浦さんが『ベルセルク』の連載を始めるのは、奇しくも森川さんが『はじめの一歩』の連載を始めたのと同じ1989年だった。
〈「ボクシングだけは本当に描きたくなかった」のに、『はじめの一歩』を描いたら大ヒット…森川ジョージが明かす名作マンガの誕生秘話〉へ続く
(川内 イオ)
