卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】
近年、奈良県桜井市北部の纏向(まきむく)遺跡の発掘成果により、考古学の立場から「邪馬台国の中心地は纏向である」とする見解が有力となりつつあります。
本稿では、邪馬台国畿内(纏向)説の視点から初代女王卑弥呼と二代女王台与、およびヤマト政権の始祖王と考えられる崇神天皇(大王)の古墳を考察します。
【前編】の記事:
【後編】では、「箸墓古墳」にまつわる『日本書紀』の記述をもとに、倭国の黎明期を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の墳墓について検証していきましょう。

神埼駅北口駅前広場にある卑弥呼像
倭迹迹日百襲姫命伝承の意味とは
「箸墓古墳」は、宮内庁により「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市陵」として治定されています。
では、その倭迹迹日百襲姫命とは、いかなる人物なのでしょうか。彼女は第7代孝霊天皇の皇女であり、『日本書紀』崇神紀十年によれば、夫である三輪山の大物主神の真の姿を目にして驚き、腰を抜かした際に陰部を箸で突き、そのまま亡くなったと伝えられています。
これが有名な「箸墓伝説」であり、古墳の名の由来になったと考えられています。
また、倭迹迹日百襲姫命は『日本書紀』において崇神朝のシャーマン(巫女)的存在として描かれており、このため多くの研究者は、彼女を「鬼道」を操った卑弥呼に比定することがあります。

箸墓古墳の拝所(Wikipedia)
『日本書紀』に「箸墓伝説」が記された意義は非常に大きいといえます。前方後円墳を築造した王権がヤマト政権であるならば、その起源譚をヤマト政権初期の天皇の条に記録しておく必要があったと考えられるからです。
すなわち、「箸墓」の伝承が第10代崇神天皇の条に記載されていることには、明確な意図があったとみられるのです。
天武天皇の時代に『日本書紀』の編纂が始まった時点で、「箸墓」はすでに皇統の起源を象徴する、ヤマト政権にとってシンボル的な存在として認識されていたことは疑いないでしょう。
箸墓古墳が卑弥呼の墓とするさまざまな説
まず「卑弥呼説」を唱える白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)は、「箸墓古墳」の築造年代を西暦250年代後半から260年頃にまで遡れると考えています。白石氏は、同古墳が日本最古の定型化した前方後円墳であること、また卑弥呼と同じくシャーマン的性格を持つ倭迹迹日百襲姫命の墓と伝承されていることなどを根拠とします。

卑弥呼(Wikipedia)
さらに「箸墓」の造営には少なくとも10年を要したとし、卑弥呼の死後、新たな政治連合を構築した後継者たちによって築かれたと推測しています。この連合とはおそらくはヤマト政権で、身分秩序に応じて大小の古墳を築く体制を整えていったというのです。
また白石氏は、纏向遺跡の北東にある大和(おおやまと)古墳群の「西殿塚古墳」を、台与とその男弟の墳墓と位置づけています。
一方で「台与説」を唱える辰巳和弘氏(元同志社大学歴史資料館教授)は、纏向古墳群を庄内0式から布留0式にかけての土器編年によって整理し、その築造順序を「纏向石塚古墳」→「纏向勝山古墳」→「纏向矢塚古墳」→「東田大塚古墳」→「箸墓古墳」としました。
その結果、「箸墓」と卑弥呼の没年は一致しないと判断しています。さらに『魏志倭人伝』において、卑弥呼は「共立された」と記されるのに対し、台与は「立てられた」とあることから、台与の時代は政治的に安定していたと推測。この安定期に巨大な前方後円墳を築くことが可能だったとして、「箸墓」を台与の墳墓とみなし、「東田大塚古墳」を卑弥呼の墓と位置づけました。

辰巳氏が卑弥呼の墓と考える東田大塚古墳(撮影:高野晃彰)
また「崇神天皇説」も存在します。これは卑弥呼あるいは台与を補佐した弟王、あるいはヤマト政権の初代大王こそが「箸墓」に葬られたとするものです。最古の大前方後円墳である「箸墓」はヤマト政権の象徴であり、初代天皇とされる「はつくにしらすすめらみこと(崇神天皇)」こそ墓の主にふさわしいとする説です。
台与は「箸墓」、崇神は「西殿塚」が真陵か?
最後に、「箸墓古墳」の被葬者像を中心に、私見を述べてこの記事のまとめとしたいと思います。
まず『日本書紀』に記された「箸墓伝説」を素直に受け取るならば、同古墳の被葬者は女性であり、さらにシャーマニズム的な宗教的権威を有していた人物であったとみて差し支えないでしょう。
しかし、「箸墓」の築造年代を最大限に遡っても西暦260年頃とされることから、卑弥呼の没年(248年頃)とは年代的にやはり一致しないと考えられます。
そこで筆者は、辰巳氏の説と同様に、「箸墓」の被葬者は邪馬台国第二代女王の台与であったと推定します。そして、おそらく倭迹迹日百襲姫命と台与は同一人物であった可能性が高いと考えるのです。

箸墓古墳(撮影:高野晃彰)
倭迹迹日百襲姫命が三輪の大物主の真の姿を知ったことで命を落としたという伝承は、邪馬台国のシャーマニズム的宗教権威から、崇神天皇が奉じる出雲系神祇へと宗教的儀礼が移行したことを象徴しているのではないでしょうか。
また、纏向に本拠を置いた邪馬台国からヤマト政権が発展したのであれば、台与は崇神天皇と並び立つ重要人物であり、その墓である「箸墓」が王墓として特別に重視されたことも理解できます。
とはいえ、この場合、卑弥呼の墳墓は依然として未確定のまま残ることになります。そこで、纏向古墳群の中で「箸墓」に先行する古墳がその有力候補となるのです。

筆者が卑弥呼の墓の一候補と考えるホケノ山古墳(撮影:高野晃彰)
そう考えると、「東田大塚古墳」あるいは「ホケノ山古墳」が最有力となるでしょう。特に、葺石を伴い、その築造年代が卑弥呼の没年に近い西暦250年前後とされる「ホケノ山古墳」が、最も可能性の高い候補であると考えられます。

ホケノ山古墳の石室模型/橿原考古学研究所(撮影:高野晃彰)
ただ、『魏志倭人伝』の記述を改めて確認してみましょう。そこには次のように明記されています。
「直径は百余歩(約180メートル)で、約百人の人柱が埋められている」
すなわち、『魏志倭人伝』によれば卑弥呼の墳墓は円形をなし、その墓域は少なくとも直径180メートルに及び、さらに多数の殉死者がともに葬られていたことになります。
「箸墓古墳」の東側に位置する「ホケノ山古墳」がある箸中地区は、古墳が集中して築かれた地域として知られています。ここには、3世紀半ばから5世紀にかけて造営された大小さまざまな古墳が点在しており、その多くはいまだ未発掘のまま残されています。
中には、西暦250年前後の纏向3類土器を出土した、直径50メートルを超えると推定される円墳も確認されています。もしかすると、考古学者や研究者の多くが注目してこなかったこの一帯に、卑弥呼の真の墓所が隠されている可能性も否定できないのです。
そして最後に、ヤマト政権において実在した可能性が高いとされる最初の大王・崇神天皇の墳墓について検証してみましょう。

崇神天皇(Wikipedia)
現在、宮内庁は纏向に隣接する柳本古墳群の「行燈山(あんどんやま)古墳」を、崇神天皇の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」に治定しています。
この治定については、多くの学者・研究者が妥当とする見解を示しています。しかし、初期ヤマト政権における大王墓の系譜をたどると、「箸墓古墳」→「西殿塚古墳」→「崇神天皇陵(行燈山古墳)」→「景行天皇陵(渋谷向山古墳)」の順になるため、「箸墓古墳」を台与の墓と仮定するならば、その後を継いだ大王・崇神天皇の墓は「西殿塚古墳」であるとみることが自然なのです。

宮内庁が崇神天皇陵とする行燈山古墳(Wikipedia)
さらに「西殿塚古墳」に隣接して、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の真陵とされる「西山塚古墳」が存在します。
『延喜式』には次のような記述があります。
「衾田墓 手白香皇女。在大和国山辺郡。兆域東西二町。南北二町。無守戸。令山辺道匂岡上陵戸兼守」
これを訳すと、「手白香皇女の衾田墓は大和国山辺郡に所在し、東西・南北それぞれ二町(約220メートル)四方の区域を持つが、専属の守戸はなく、山辺道にある匂岡上陵(崇神天皇陵)の守戸が兼務していた」となります。
すなわち、崇神天皇陵は手白香皇女の墓に隣接していなければならないことになり、この条件から考えると、「西殿塚古墳」こそが崇神天皇の真陵である、と推定できるのです。

筆者が崇神天皇陵と推測する西殿塚古墳(Wikipedia)
いかがでしたでしょうか。今回は2回に分けて邪馬台国の二人の女王・卑弥呼と台与、およびヤマト政権の初代大王と目される崇神天皇の墳墓について考察しました。
長い文章になりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

