元ロッテ・成本年秀氏【写真:尾辻剛】

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元ロッテ・成本年秀氏、5年目シーズン中にトミー・ジョン手術

 元ロッテの守護神・成本年秀氏は、入団3年目の1995年に球宴初出場。4年目の1996年には7勝6敗23セーブで、最優秀救援投手のタイトルを初めて獲得した。年俸も1億円の大台に乗ったが、翌1997年にプロ野球人生が暗転する。春季キャンプ中に右肘に違和感を覚え、開幕直後に出場選手登録を抹消。その後は何とか調整を続けたが右肘の腱が切れていることが発覚し、9月にトミー・ジョン手術を受けた。

 この年、ロッテは米国のアリゾナ州で春季キャンプを開催。その紅白戦の登板後に右肘に違和感があり「おかしいな」と思ったという。「でも前年のタイトルホルダーだし、やらなきゃいけない立場じゃないですか。何とかしなきゃって思ったんだけど、だんだん小指から薬指の感覚がなくなってきた。神経がやられて……。力が入らなくなって、ボールが抜け出してね。このままじゃ駄目だというか、まあ抑えとしては無理だなと思いましたね」。

 ごまかしながら調整し、7月に1軍復帰したものの本来の調子ではなく、打ち込まれる日々。近藤昭仁監督に勧められ、来日していたフランク・ジョーブ博士の診察を受けた。世界で初めてトミー・ジョン手術を行ったことで知られる名医に「内密に会ったんですよ」と振り返る。場所は東京駅近くのパレスホテル。「MRI検査の結果を持って見せに行ったんですけど『これは80%切れているね』って言われて……。手術しないと、もう元には戻らない。そういう状況でした」。

 今でこそトミー・ジョン手術に踏み切る投手は多いが、まだ肘にメスを入れる選手が多くなかった時代。ただ同年4月、1学年上の巨人・桑田真澄投手が手術から復帰登板を果たしていたことと、ロッテの先輩である村田兆治投手も復活していたことが背中を押した。「投手は手術したら終わりという時代から、復活できる可能性があるという時代になりかけていた時。最先端の手術を球団が受けさせてくれるということなり手術を決断しました」。

「勲章を残せたことに誇りがありますし、怪我したことに悔いはありません」

 5年目はプロ入り最少の11試合登板で2勝0敗0セーブ、防御率10.45で終了し、シーズン中の手術を決断。「タイトルを獲った翌年で、タイミング的に(選手として)一番いい時だったんですけど、この先10年やるために、1年我慢しても手術した方がいいなと思ったんです」。左手首の腱を右肘に移植。手術直後はギプスで固定された右腕を10日間ほど動かせなかったという。

 厳しく、苦しいリハビリの日々。4か月たって、ようやく腕を下から振ってトスを上げることができるようになった。そこから徐々に距離を伸ばしてキャッチボールへ。投球練習ができるようになったのは1998年の7月だった。ただ、そこから状態がなかなか上がらない。「リハビリって良くなったら、ああ駄目だ、また良くなったら駄目だの繰り返し。コンディションの波がある。思うようには進まない」。実戦復帰は手術から1年後の10月。覚悟はしていたものの「1年間、投げられないというのは結構つらかったですね」と回顧した。

 それでも救援投手としてフル回転したことにも、無理がたたって手術を受けたことにも、後悔はない。「頑張ってタイトルを獲らせていただいて、手術っていうふうになりましたけど、まあ自分の実力で言ったら、目いっぱいやってきて、頑張って勲章を残せただけで十分ですし、怪我したことに悔いはありません。だって自分の体を気にして、中途半端に終わるより、そうやって結果を残せた方が、いいじゃないですか」。チームのため、自分のため、家族のために必死に腕を振ってきた守護神は、復活に向けて必死にリハビリを続けた。(尾辻剛 / Go Otsuji)