安奈淳

写真拡大

 宝塚トップスターとして人気を博した女優で歌手の安奈淳がコロナ禍の昨年からインスタグラムを始めた。そこで注目されたファッションと半生を綴ったスタイルブック『70過ぎたら生き方もファッションもシンプルなほど輝けると知った』で明かした宝塚時代、50代の闘病生活、そして今伝えたい思いとは――。

【写真】安奈淳、50代の闘病生活を乗り越えた現在の美貌がこちら!

 安奈といえば『ベルサイユのばら』での男装の麗人オスカル役のイメージが強い。池田理代子原作漫画を1974年に舞台化。漫画人気とともに“ベルばら”ブームが起こり劇中歌『愛あればこそ』がヒットするなど宝塚を代表する演目に。安奈が演じたヒロインはハマり役だが《オスカルはさほど愛着のある役ではなかった》と記している。

「宝塚に13年間在籍していろんな役をやりました。私自身にとってオスカルが突出していたということはなくて、ほかにも好きな役がたくさんありました。

 当時は『ベルサイユのばら』で初めて宝塚を見た方も多かったので、イメージが強いと思います。代名詞のようになっていることに抵抗はないです。その時代を知っている方は私が死んだら“オスカルを演じていた方が亡くなったわね”と話されると思います(笑)」

30歳で退団後、次々と身体の不調が

 30歳で退団。主演舞台など仕事は引きも切らなかったが、身体の不調を抱えるようになった。C型肝炎、37歳で髄膜炎、47歳のときには指先が真っ白になるレイノー症状で手首や指の腫れと全身関節痛に悩まされた。50歳を過ぎると難病の膠原病を患い約10年間の闘病生活を送った。

「50代は入退院の繰り返しで、危篤になったときもありました。最初は原因がわからなかったのでドクターがチームを組んでの検査が続き、まな板の上の鯉のような状態で日々、生きているのが精いっぱいでした。

 入院中は朝昼晩の区別がつかない。気を紛らわす方法もなく、ただ生きているという感覚。薬の副作用もあったと思いますが詳しいことは覚えていなくて、とにかく50代はほとんど記憶がないくらい大変でした」

生きるうえで必要なものだけあればいい

 闘病中にはうつ症状になり、投げやりな気持ちが強くなっていった。眠れない夜が続いたときにベランダから飛び降りようとしたこと、キッチンのナイフで首を突こうとしたなど自殺未遂も赤裸々に明かしている。

「すべて事実。隠すつもりもないです。そういうときを支えてくれたのは宝塚時代を含めた友人たちです。ほかのことは思いつかないくらい支えてもらいました」

 仕事を再開した60代になってからも65歳で心臓弁膜症を患い、68歳のときには腎臓がんの手術を受けた。

「身体と相談しながら無理しないように病気と付き合っています。難病はいつからとか、何がきっかけでよくなるということはなく、医学が進歩しているなかで薄紙をはがすように段々よくなっていく感じで、今に至っています」

 闘病中には“断捨離”を敢行した。

「それも薬の副作用があったかもしれませんが、面倒くさくなって何もかもいらなくなっちゃいました。自分が生きるうえで必要なものだけがあればいいと思うようになって処分しました」

 洋服や舞台用アクセサリーは友人や後輩たちに譲り、高価なミンクのコートはリサイクルショップに二束三文で売り払った。ワードローブには、30年間愛用するGAPのチノパンをはじめ着回しのきくベーシックカラーのアイテムだけを残した。

「必要な物の中からとっかえひっかえして着ています。毎日、違う格好をする必要もないですし、そもそも人は(他人の服装を)そんなに見ていませんよ。毎日、下着はかえますが気づいたら3日ぐらい同じコーディネートのまま出かけていくこともあります。

 たくさん持っていると悩みは増幅されるので、少なければ悩みません。

 宝塚時代は若かったので、あれもこれも着たいと思っていましたが、遊びに行くことはほとんどなくて稽古場と家の往復だったので、デニムにシャツやTシャツを合わせるのが定番スタイル。ときどきみんなで食事する程度なので、かしこまった服装をすることも少なかったです。水玉、縞模様以外の柄物は着ません。ステージできらびやかな衣装を着ていた反動があったかもしれませんね」

 30年間同じチノパンをはき続けられ、体形が変わっていないことにも驚く。

「私の身体にぴったりで気に入っています。体形は年齢を重ねて肉のつき方は変わりました。でも下半身だけは男の子っぽい体形なのか変わらないですね(笑)」

●ライフワークの歌とストレス解消法

「新しい歌を覚えたいという欲求ぐらいで歌以外にやりたいとこは何もありません。ストレス解消法は掃除と片づけ。無心になれて忘れちゃいます」

明けない夜はない70代はシンプルに

 ハードな宝塚時代、苦しい闘病生活を経た境地は前向きだ。

「13年間の宝塚でつらかったことはいい思い出に変換しちゃっています。

 鬼みたいに厳しい振付師がいて殺意を感じたこともありましたけど(笑)、私だけでなくみんなが大変な思いをして指導を受けた。それが今になってみると自分の宝物になっています。もしあのときに脱落していたら今はなかったと思います。

 生きていればいろんなことにぶち当たります。嫌なことも最悪なことも起きると思います。でもそれを乗り越えると人間を形成する栄養になって蓄積されていく。

 私の年齢になると嫌な人とは付き合わない、嫌なことは避けて通ることができるようになります。でもそれまではいろんな経験を積んで乗り越えていくことが人間的な厚みをつくるには必要なことだと思います。

 明けない夜はないので、乗り越えた先に光が見えてくるからあきらめないで前を向いていってほしいと思います。

 私自身、死んだほうがましと思ったことは何度もありましたが、いま生きながらえていられるのは神様のおぼしめしだと思えるようになり、生きていてよかったと思います。乗り越えられた自分に頭なでなでしてあげたいです」

 70代からはシンプルをモットーにし、個人事務所を立ち上げインスタなど新たな挑戦も。

「SNSは始めたら面白くて一気に世界が広がりました。ファンクラブには若い方が増えてうれしく、ありがたいです。

 この先の生きている時間を考えたとき、くよくよ落ち込む時間はもったいないので、自分が満足して人生を終えられるためにはどう生きていったらいいかを常に考えています」

 人生の先輩が体現した金言です。

●プライベートでは宝塚退団後に結婚

「身体がちょっと弱っていたときにプロポーズをされて、そういう人がいると安心かなと思い、保険に入るような感じで結婚しました。1年半ぐらいで終わりましたが、仕事との両立が難しかったことが原因のひとつです。それ以降、結婚を考えたことは一切ないですよ」

『70過ぎたら生き方もファッションもシンプルなほど輝けると知った』
(1600円+税/主婦の友社/発売中)

(撮影/佐山裕子)