憧れの「ポツンと一軒家」住人に、田舎は幸せですかと聞いてみた 寂しくない? 不便なことは?

写真拡大 (全5枚)

北の豪雪地帯から南の島まで、全国各地に家主の理想を叶えた家は建っている。そこに住む経緯や哲学も様々だ。ズバリ、そこでの暮らしは幸せなのか。本人に聞いてみないとわからないことは多かった。

「妻を喜ばせたい」一心でログハウス造り

北海道は網走と釧路の中間地点に位置する川上郡弟子屈町。最低気温がマイナス20度を下回ることもある、道内でも屈指の寒冷地だ。

この地で自分たちだけの力でログハウスを建て、夢だった田舎暮らしを実現させた夫婦がいる。中村敬吾さん(65歳)、淑子さん(70歳)夫妻だ。

彼らは10年前に千葉県から引っ越してきた。今は一番近くの民家まで1kmというポツンと一軒家に住んでいる。

地方移住は淑子さんの希望だったという。

「妻がふと、定年後に何もやることがないとつぶやいたんです。それで、ヨットで太平洋を回るとか、外国で暮らすとかいろいろ提案しました。その中で彼女が一番望んだのが北海道に土地を買って、自分たちで家を建てるというものでした」

夫婦の出会いは24年前。敬吾さんの経営していた喫茶店を、臨床検査技師だった淑子さんが訪れたことがきっかけだった。すぐ交際をはじめ、敬吾さんが45歳、淑子さんが50歳のときに結婚する。共にバツイチ同士、2度目の結婚だった。

「そして妻が定年を迎えた'06年に、白樺や笹が生い茂った原野2300坪を300万円で買いました」(敬吾さん)

土地をどう使うかの構想に3年を費やし、'09年4月、満を持してまずは敬吾さんが北海道へ。そこから敬吾さんの苦戦が始まった。

「妻を喜ばせたい」という一心でキャンピングトレーラーで生活しながら、たった一人で3ヵ月かけてログハウス造りに挑戦したのだ。

「建築は初めて。重労働で両腕が腱鞘炎になり、茶碗すら持てなくなってね。でも、妻が来るまでに何とか完成させようと思い作業しました」

3ヵ月後、淑子さんが千葉から合流。過労で痩せこけた敬吾さんを見たときは言葉が出なかったという。

「夫は『君が最初に家に入るときは僕がお姫様抱っこをしてドアをくぐらせるんだ』と言っていたんです。でも、再会したときは疲れきっていて、お姫様抱っこをしてよ、なんて言える姿ではなかったです」(淑子さん)

残念なことに、急いで建てた1軒目のログハウスはほとんど掘っ立て小屋。愛犬が走り回るだけで地震かと思うほど家が揺れるという粗末な造りだった。

「雪が降れば窓の隙間から雪が吹き込み、家の中にもうっすらと雪が積もる。開き直って風流だなと笑い飛ばすしかなかったです」(淑子さん)

妻をいい家に住ませたい。敬吾さんは点滴を打ちながら、さらに2軒目の家作りに励んだ。

それからさらに3年間をかけ完成したのが、現在のログハウス。立派な三角屋根に、1階と2階で壁の色が異なる洒落た外観で、中は吹き抜けという造りだ。敬吾さんの執念と、二人の愛の結晶ともいうべきこの家には、住宅の専門誌が取材に来たこともある。

「家の近くに山ブドウの木があるんですけど、毎年誰かに先に取られるんです。よく見ると木に何か登った跡があって……。クマの仕業だと気付いたときはさすがに血の気が引きました」(淑子さん)

そう言いながらも、自分たちで切り開いたこの土地への愛着は強い。中村夫妻は文字通りこの地に骨を埋める覚悟を決めているという。

「原野に穴を掘って、墓も自分で作りたい。死の間際にそこに行ったら落とし穴のようになっていて、落ちたら上から土が降ってくる。こんな装置を作りたいかな。棺桶もいらない。ここの土に還りたいです」(敬吾さん)

周囲に隣人はいない。だが、夫婦一緒なら寂しくない。二人の満足げな表情がそう語っていた。

「牛の乳が出ない!」苦情を乗り越えて

「ここに来たとき、ワインを持って酪農家さんたちに挨拶しに行ったんですが、白い目で見られました。『お前のとこのエンジン音がうるさくて、うちの牛の乳が出なくなったんだ』と家に怒鳴りこまれたこともあります」

こう語るのは「登別オフロードパーク」を経営する佐野亮二さん(60歳)だ。新千歳空港から電車で45分のところに位置する登別市。日本有数の温泉街として有名なこの町で夢を叶えるため、東京からの移住を選んだ。

登別駅を出発し、人気のない農道をしばらく走り続けると「登別オフロードパーク」の看板が現れた。看板の指示に従って道を曲がり、砂利道の坂を300mほど登ると、丘の上に建つ大きな一軒家が見つかる。

昔はペンションだったこの家は、1階はリビングと2部屋、2階は4部屋の6LDKという間取り。吹き抜け部分に通された木の梁と、リビングの中央に置かれたペチカが特徴的だ。

佐野さんが登別市へと引っ越してきたのは13年前だった。

「競売に出されていた家を450万円で買ったんです。やけに安いなと思って実際に来てみると、前の住人のせいでほとんどゴミ屋敷でした」

佐野さんは道路を整備する法人で20年間働いていた。しかし仕事に嫌気がさし、趣味を生かした仕事を始めたいと考え、早期退職をすることに。

以前からバギーやスノーモービルといったモータースポーツが好きで全日本選手権に出場したこともある腕前だったため、自分でこれらを楽しむことのできるコースを作り、生計を立てていこうと決心する。

退職の直前に離婚をしていたため、独り身に戻って自由だったという佐野さん。前職の退職金を握りしめ、単身で北海道へと移り住んだ。

家の整理と並行して1万1000坪、札幌ドームの約3分の2の広さの土地を600万円で購入。前職のツテを頼って重機を借り、半年間をかけて一周800mというバギーのコースを完成させた。そして「登別オフロードパーク」として営業を開始する。

Photo by iStock

だが、はじめから事業がうまくいったわけではない。自宅は周囲を牧草地帯に囲まれている。冒頭にあったように酪農家たちからの反応も良くなかった。

「市もよそ者には厳しかった。うちの前の砂利道なんて、市道なのに3年間はまったく除雪をしてもらえなかったです」

苦労は多かったが、開業当初は1年間で100組しかいなかった来場者が口コミで増え続け、昨年はついに年1300組を超えた。

「農家さんとの衝突もあって心細いと思ったこともありました。でも、農作業を手伝ったりする中で徐々に打ち解けた。今では作業の合間に遊びに来てもらえる間柄です。

独り身ですが、もし俺が倒れても誰か見つけてくれるから、孤独死なんてことは絶対ないですよ」

いくらポツンと一軒家といえども、完全に孤立して生きていくことはできない。少しずつ少しずつ地域に溶け込んでいった佐野さんの生き方が、それを教えてくれる。

理想の自然だが「普通の人は難しい」

「この辺りに他の家があったのは、もう80年以上前だと聞いています。今から25年前、私たちが移住してきたときには舗装路がなくて、軽トラックがギリギリ通れるくらいの畦道ばかりでした」

山形県の西村山郡で暮らす姉崎一馬さん(71歳)が語る。西村山郡は、山形駅から西へ車で1時間ほどの山あいの地域だ。

妻の恵美さん(62歳)と暮らす姉崎さんの家は、山間部を流れる朝日川の近くにある。近隣の市から車で30分ほど走り、朝日川沿いの道を逸れると水田がある。そのそばに、2階建ての住居と倉庫が見えた。

「朝日川沿いだと、私たちより山奥に暮らしている人はいません。引っ越してきた当時は、オウム真理教や赤軍派の人が逃亡したというニュースがあり、『山奥に突然大きな家を建てて、怪しい人なんじゃないか』と思われていたらしいです」

姉崎さんは樹木や草花などの自然を撮影する写真家だ。25年前までは東京に住んでいたが、一念発起して自然のなかで暮らす道を選んだ。

「子供のころから自然が大好きで、ここに住む前から全国の森を撮影して回ったりしていました。そうしているうちに、朝日川あたりの景色や空気が気に入りました。

山のもっと奥まったほうに、日本一の広さといえるブナの原生林があるので、私にとっては理想的な場所だったんです」

姉崎さんの家は、木材にできるだけ地元の杉材を使用し、窓ガラスも冷暖房のエネルギーロスが少ないように設計するなど、自然環境に配慮した造りになっている。

「家を建ててから、周囲に落葉広葉樹を植えました。夏は涼しい日陰になるんです。

日中は外に出て、太陽に温められた土の上に寝そべったり、夜は澄み切った空気の向こうにある星を眺めたり。プラネタリウムなんかとはまるで違う、格別な気分を味わえるんですよ」

緑深い夏季や稲穂が実る秋口の景色は、自然を愛する人たちには堪らない美しさだろう。ただ、冬になり雪が積もると、姉崎家の周辺は「陸の孤島」になってしまう。

「このあたりは1.5mから多いときだと2mくらい、重い雪が積もるんです。11月から翌年5月の連休くらいまで、家から600m先の道のゲートが閉鎖され、身動きが取れなくなります。

どうしても買い物が必要なときは、除雪されているところまで車で届けてもらい、ゲートの鍵を開け、スキーを履いて取りに行くんです」

Photo by iStock

冬場に一度だけ、妻の恵美さんが骨折したことがある。その際は、遭難救助の際に使うボートを自宅近くまで持ってきてもらい、悪路のなか6人がかりで搬送された。

「電気やガスなどのライフラインは問題ありませんが、やっぱり普通の人がこの辺りに暮らすのは難しいでしょう。車が運転できない年齢になったら、夫婦どちらかが寝たきりになったら……。

人がいなくて不安じゃないかと聞かれますが、むしろ人が近くにいないからこそ、カモシカやキツネ、珍しいものだとテンが目前まで来たりするんです。

先のことはともかく、いろんな自然や動物の観察ができるのは、いまの私にとって理想的な暮らしなんですよ」

将来への不安がないわけではない。ただ、現在は充足を胸に、姉崎夫妻の一軒家は間もなく26回目の冬を迎える。

国立公園内「不審者がいる」と通報され…

「よく来たなあ!取材に来るといって、途中で引き返す人間もおるんよ。こんな山奥に人が住んでいるはずないって。タクシーに頼んでも運転手が嫌がってここまでは来ん。あるいは気づかずに家を通り過ぎる輩もおる」

紀伊半島東部に位置する三重県は、尾鷲や熊野古道に代表されるように、深い渓谷に沿った景勝地が並ぶ。日本三大渓谷にも数えられる「大杉谷渓谷」がある大台町の山奥で暮らす男性がいた。

最寄りのインターチェンジを降りて20kmほど県道を進むと、一車線の山道に差し掛かる。右手にはむき出しの岩肌、左手の崖にガードレールはない。そんな道をさらに約20km走ると、ようやく小屋らしきものがある。

家主は巽幸則さん(71歳)。スキンヘッドに髭面、上半身裸といういでたちは、まさに自然の中で暮らす男といった雰囲気だ。

「生まれも育ちもこの近くの村で、働きに出てからは松阪市内や愛知県におった。そしたらあっちゅー間に40歳になっとったんよ。『俺の人生、これでええんか』思うて、'92年、44歳のときに大台町に戻ってきて、自然の中で暮らしはじめた」

巽さんの家の入り口は尋常ならざる雰囲気が漂う。手作りの流木のアーチをくぐると、10mほどの苔むした階段が出迎える。階段を上がると、石造りの水がめが山から引いてきた水を受けている。

その右手には、2階建ての木造の家が見えた。実はこの家、約6万haにおよぶ吉野熊野国立公園の中にある。巽さんの家から少なくとも周囲10kmに民家はない。

「ここは三重県が管理していた土地で、近くのダムの職員寮だったんよ。それが空き家になっとったのを手に入れて、改修工事して住みはじめた。

でも初めて建物に入ったときは愕然としたな。屋根はないし、床はボロボロ。知人からは『あんなところ絶対に住めへんからやめとき』って言われたけど、そんなのお構いなしやった」

「寮」というよりも「登山小屋」に近い雰囲気の母屋の反対側、川が流れる渓谷を一望できる高台には、巽さん手製のテラスがある。母屋には冷蔵庫やシャワー、炊飯器などが揃っているが、巽さんが日中過ごしているのはテラスのほうだという。

「夏になると、週3回はこのテラスでテント張って寝とる。やること?ぼーっとするか、うたた寝するか、本を読むか。夜になったら七輪で肉を焼いたりするな。

この家にはよく動物が来るんよ。最近はコウモリを手なずけて、口笛を吹くと寄ってくるようになった。このところは見かけないけど、冬に焚き火をしているとタヌキが集まってくることもあったで。鹿は手なずけるのに7年はかかったな」

Photo by iStock

現在は年金を受給し、それ以外にも山岳ガイドなどのアルバイトをして生計を立てている巽さん。やはり現代的な生活を極力避けているのかと思うが、実際はどうなのか。

「自給自足生活がしたいワケやないし、冷凍食品だって普通に食べる。週1〜2回は車で、街まで買い物に行くよ。生活費は年金がメインやけど、それだけじゃ暮らしていかれへんから、町へバイトしに行くこともある。

山奥の暮らしで不便なこと?不便ってワケやないけど、川遊びに来た家族連れに不審者扱いされたことはあったな。

上半身裸の俺を見た途端、どこか行ってしまって、あとで町の人に話を聞いたら、『山奥に不審者がいた』と通報されてたみたいでな。わしは昔からここに住んどるっちゅうのに」

俗世離れしているわけではない。ただ都市で暮らしている人からすれば、国立公園の山奥に住む巽さんは「仙人」のように見えるのだ。

隠れ家レストランがミシュランに載るまで

愛媛県松山市から車で走ることおよそ1時間。久万高原町に入ってからはまったく対向車がいない。すると、道路の左手に小さな木の看板が見えた。「カフェレストランこもれび」と書いてある。

車同士がすれ違うこともできないような山中の細い道を運転すること5分。少し道がひらけ、レストラン兼自宅が見えてきた。

「妻が自分たちで家を作るというので、日曜大工をしたこともなかったですけど僕も手伝いました。

楽しんでやっていたというより、やるしかないという状況だったので追い詰められていた感じです。ここに来てから、人間として生きる力は確実に高まっていますね」

こう話すのは、ここに住む難波昭宏さん(45歳)だ。昭宏さんは妻の敬子さん(43歳)と「カフェレストラン こもれび」を経営しながら3人の娘を育てている。

「山の上のレストランというと、ゆったりしているように思われるんですが、実際はすごく忙しいんです。

レストランの経営のほかにもやることはたくさんあります。春から夏にかけては家の周りの手入れ、冬は雪かき。一日が本当にあっという間です」(昭宏さん)

二人は16年前に出会い、結婚。しばらくは東京で暮らしていたが、子育てをしていく中で転機が訪れる。

「妻が自然豊かな環境で子供を育てたいと言い出したんです。自分が育った大自然と触れ合わせたいと言っていて」

敬子さんは故郷である久万高原町に戻ることを決意。昭宏さんがそれについていく形となった。敬子さんの両親は二人を歓迎し、シェフである昭宏さんにレストランを始めることを提案した。

「最初に話を聞いたときは悩まなかったです。1時間以上かけてでも、きっと市内からお客さんが来てくれるはずだと思っていました」

'07年にオープンした店は現在、日曜には8組ほど座れる席のすべてが埋まるなど繁盛している。地元産の食材を使ったランチが人気を集めており、昨年には『ミシュランガイド広島・愛媛』にも掲載された。

「今日は誰も来ないだろうなという嵐の日に上品な男性が一人で来店したんです。料理を食べ終えたあと『実はミシュランの調査員でして……』と言って。そんな人が来ると思っていなかったから、本当に驚きました」

最近の悩みは山奥で暮らしているため、人と接する機会が減ったことだという。

「人と話すことが少ないので、子供たちがうまくコミュニケーションをとれるよう育っているか心配です。ここは人ではなく自然と触れ合う時間のほうが長いですから」

難波さん一家のように大自然の中で暮らすことを選んだ人たちも、そこでしか気付かない悩みを感じて生活している。

山中に築いた「競走馬の楽園」

岡山県のちょうど真ん中付近に位置する加賀郡吉備中央町。岡山自動車道のインターチェンジから山道を5kmほど走っていく。すると途中に、細い脇道が伸びている。続く先は豊かに茂る森だ。

その脇道を300mほど進むと、突然景色が開けた。広さにして1.5haの草地に、2頭の馬が放牧されているのが遠くに見える。山中が、牧場兼住宅になっているのだ。

オーナーは森光康裕さん(53歳)。'14年にこの地へ移住、牧場をオープンした。現在は12頭の引退した競走馬を飼育しつつ、妻子と暮らしている。

森光さんの生まれは福岡県北九州市。学生時代は大阪で過ごしたというが、なぜ縁もゆかりもない地に移住したのか。

「大阪のIT系企業でエンジニアをしていたんですが、忙しい毎日と将来に不安を感じていました。そんなとき、先輩が競馬場に連れて行ってくれたのが馬との出会いでした。

最初はただの競馬ファンでしたが、だんだん乗ってみたい、触れてみたいと思うようになりました」

26歳のとき、森光さんは厩務員の道を目指すことを決断する。当然、ゼロからのスタートだ。

「たまたま高崎競馬場で募集があり厩務員になったものの、キツい仕事です。競走馬は暴れたら手に負えません。僕自身、事故で左手の人差し指の半分を失いました」

Photo by iStock

大ケガを負いながらも、'09年ごろから牧場経営への決意を固めた。

「『関西に引退馬を引き取る牧場がない』と馬主さんから聞いて、ニーズがあるのではと思った。そんなときに吉備中央町を紹介されたんです。

周りに住んでいる人は誰もおらず、ただの山地でした。電気も水も通っておらず、電気は中国電力に引いてもらい、水道は業者を探し回って、地下水を汲み上げてくれるよう頼みこみました」

預かった引退馬の管理費で生計を立てる森光さん。2階建ての住居は放牧地の片隅の高台に、ひっそりと建っている。

「都会での暮らしに比べれば、ここでの暮らしは不便だと思います。買い物は片道50分くらいかかりますし、小学生と幼稚園の娘を車で送り迎えする必要もあります。

でも、この土地は馬を最優先にして選びました。いくら不便でも、街から離れていても、馬と一緒に暮らせればいいんです」

馬にとっての楽園を作ることが、森光さんにとって最大の喜びなのだ。

陶芸家になるはずが、自給自足生活へ

樹齢2000年超の縄文杉をはじめ、神秘的な自然に満ちた鹿児島県屋久島。ここで、令和の時代とは思えない暮らしをしている人物がいる。

その家は、島の北東部に位置する森の中にある。県道を外れて山道を進むと、人がやっとのことで通れる獣道が見える。両脇はジャングルのように熱帯植物が生い茂っているが、ここが玄関への「アプローチ」なのだという。

その道を進むと、朽ちた倉庫のような建物の入り口に男性が立っている。山奥の一軒家で暮らす菊池亨さん(66歳)だ。

山の斜面を削って建てられた家の屋根は、生い茂る樹木で埋め尽くされている。8畳一間程度の平屋は、菊池さん自ら建てたものだ。外壁にはなぜかワインや焼酎の空き瓶が埋め込まれている。

「床や枠組みは木材、外壁は石を積み上げたり、粘土を塗ったりして組み上げてる。瓶を外壁に入れてるのは、粘土の補強や防虫になると思って。重機は使ってないね。

部屋の囲炉裏を中心に生活してるから、冬も寒いということはないな。ここから一歩も動かないときもありますわ」

Photo by iStock

ガスが通っていないため、調理は囲炉裏、風呂は自家製の五右衛門風呂で済ませている。水道は山の川から水を引いているが、下水はなく、用を足すときはバケツの上に便座を敷き、土に埋めて肥料にしているという。

多少の不便は当たり前という暮らしぶりだが、電気や電話線は引いてもらっていて、冷蔵庫の中にはスーパーで買った鶏肉や発泡酒が冷えていた。

「今は、きゅうりやなすなんかの野菜を20種類くらい育てて、できる限り自給自足で暮らしています。収入は、月3万円入ってくる年金だけです」

京都で生まれた菊池さんが屋久島に移住してきたのは'78年、26歳のときだった。4人姉弟の次男で、幼少期は何不自由ない生活を送っていた。

「でも、父親が始めた石炭の事業が失敗して、家族の生活は激変してしまった。莫大な借金を抱えてからは、土地を取られ、借金取りに追われる毎日だったんですわ。

それで、いつか田舎で、おカネに頼らない暮らしがしたいと思うようになった。生涯独身を決めたのも、おカネのことでずっとケンカしていた両親を見ていたからかもしれないな」

菊池さんは職業訓練学校で焼き物を学んだ後、会社勤めをして移住資金を貯めていった。今のように観光地化する前の屋久島の土地1200坪を、菊池さんは当時の物価を考えても割安の80万円で手に入れた。もっとも、その土地のほとんどは原生林だが。

「移住して最初の5年間はテント生活よ。アルバイトしながら小屋を建てとった。ほんで窯を作って、陶芸家生活をスタートさせたんやけど、さっぱり儲からなかった。年収?多くても24万円。月に1万円売れたらええわ、という感じ」

実はいま住んでいる菊池さんの家は「二代目」だ。'93年に発生した台風で、家が崩壊してしまった。その廃材を使って建て直したのが現在の家だ。

そこまでしてここに住み続ける理由はあるのか。

「京都の人間という思いは今でもあるよ。でもここに移住してきたときに本籍も移して、落ち着いた。子供の頃はいつ追い出されるかと不安やったから、土地を持ってないと不安なんやろな。いまはここでそのまま死ぬつもりや」

田舎暮らしにもいろいろな理由や動機がある。

「週刊現代」2019年9月28日号より