井手口は言う。
 
「それまでは、ただ楽しいという感覚でしたが、カメリアーズに所属して、足もとの技術について教わることが多くなってからは、自分にできることだけじゃなく、できないことも増えて、楽しさの種類が変わっていったんです。練習時間もめっちゃ増えましたね。当時は週に5日、チームの練習があったんですけど、休みの2日間はもちろん、学校の休み時間もひたすらサッカーをしていました。周りの友だちもサッカー好きが多かったから、とにかくサッカー、サッカーで、サッカー以上に面白いと思うものはありませんでした」 
 
「加入当初は少し照れ屋というか、あまり自分から話すこともせず、ただニコニコしているだけの子でしたが、いざプレーをさせると同学年の子とは圧倒的な差がありました。身体能力やスピードも群を抜いていましたが、なにより驚いたのは、その年にして『サッカーを知っている』ということ。常に冷静で、自分の感覚でボールを蹴っていました」

 そう話すのは、当時の油山カメリアーズ監督、加藤義裕だ。
 
 井手口が加入する前から、その才能は耳にしていたが、実際に目にした井手口は、ずいぶんとプレーが大人びていたと言う。ただ一方で、「足もとの技術はそこまで高くなかった」(加藤)。だからボールタッチの感覚を磨くため、チーム練習に取り入れていたフットサルをやらせようと、その必要性を説いたそうだが、本人は明らかに乗り気ではなかった。

「その理由を聞いたら、『以前のチームでもフットサルをしていたけど、全然面白くなかったから』と(笑)。でも、うちでやっていたのは、いわゆる型にはめないフットサルでしたからね。『いいから一度やってみろよ』と言ってプレーさせたら、すぐにその楽しさに気づいたんでしょう。ツボにはまったのか、終わる頃には『フットサルも超好きです』に変わっていました(笑)。普段の練習もそうですが、楽しいと思う気持ちと、元来の負けず嫌いな性格が合わさると最強でしたね」(加藤)

 そんな井手口の成長を見守りながら、母・亜紀子は彼が小学6年生の夏に、こんな提案を持ちかける。

「ガンバのセレクションを受けてみない?」

 きっかけは、5歳上の次兄・稔が小学6年生の時に、アビスパ福岡ジュニアの一員として出場した全国大会だった。ここで原口元気(現ヘルタ・ベルリン)が所属する埼玉県の江南南サッカー少年団と対戦し、母・亜紀子はこんな風に感じたという。

「素人目なので上手く説明できませんが、原口くんをはじめとする江南南の選手のプレーは、同い年とは思えないほど質が高くて、あらゆる面で明らかな差がありました。それを目の当たりにして、『陽介が中学生になるタイミングには福岡を出て、より高いレベルに挑戦させてみたい』と思ったんです。

 といっても、その時はまだ具体的な考えはありませんでした。ただ陽介が6年生になった時に、8歳上の長兄・正昭(現ホアンアイン・ザライFC=ベトナム)が阪南大に進学していて、大阪に住んでいたこともあって、ガンバのジュニアユースのセレクションを受けてみないかと本人に提案したら、あっさり『そうする』と。合格したら、私と陽介が大阪に引っ越して、長兄も呼び寄せて3人で暮らし、ダメだったらこれまでどおり福岡で頑張らせるつもりでした」

<後編に続く>

取材・文:高村美砂