徳川家が「豊臣時代の痕跡」を抹消するために命じた「大坂城再建」の陰謀

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大阪のシンボル・大阪城を築いた豊臣秀吉。百姓の出自ながら天下統一を果たし、大阪のまちの礎を形づくったこの英傑を、大阪人は親しみを込めて「太閤さん」と呼び愛してきた。

「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の句に象徴される知略家な一面を持つ武将、派手好きでコテコテな"大阪人気質”の元祖--。そんなイメージで語られがちな秀吉だが、その人物像は、実は時代とともに少しずつ姿を変えてきた。

大阪というまちの歴史とともに揺れ動いてきた「秀吉像」とは一体何なのか。その変遷を紐解く一冊『大阪人はなぜ太閤さんが好きなのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

大阪城再建は10年かけた一大事業

元和5年(1619年)に松平忠明が大和郡山に移封されると、代わって伏見城代だった内藤信正が横滑りで初代の大坂城代として赴任してくる。翌年には将軍秀忠の命により、廃城となっていた大坂城を畿内および西国の支配の拠点として再建することが決まる。

10年の歳月をかけた幕府による大坂城の再建は、築城の名手とされる藤堂高虎を総責任者にした天下普請とされ、豊臣時代の痕跡を覆い隠すかのように、全体を数メートル盛り土してかさ上げし、石垣も組み直している。

幕府から大坂城普請への助役を命じられた西国の諸大名は競い合うかのように各地から巨石を運び込み、現在の大阪城で見られるような、蛸石や肥後石などが配置された。蛸石は岡山の池田藩が、肥後石は熊本の加藤藩が運び込んだと言われている。

面積こそ三の丸を市街地化したので豊臣時代より縮小されたが、天守閣は豊臣時代のものを大きく上回る58メートルの高さに達した。黒漆塗りの豊臣天守と差別化を図るためであろう。徳川カラーの白漆喰の天守だったとされる。

巨費を投じた背景に「特別な思惑」

平均して15万人もの人夫が大坂で工事にあたり、石垣の構築だけで現在の貨幣価値で700億円もの巨費が投じられた背景には、幕府が大坂城の再建にかける特別な思惑があったと経済史家で、大阪大学教授だった宮本又次は、著書『大阪町人論』で指摘する。

〈幕府当局の方は、豊公恩顧の地というので、余程大阪に気兼ねをしていたようである。早くから地子(住宅にかかる税)の免除を実施して、大阪の懐柔策に苦心していた。大阪城も徳川氏の権威を示すために徹底的に石がけからなにもかも再構築しているのだ。大阪城の巨石も実は徳川氏が大阪人に権力を誇示するために、諸侯に貢がせたものだ。それでも大阪町人は始終一貫して徳川的勢力には心服していないのである〉

もちろん、大坂の町人もときの政治権力に表立って盾突くような真似は決してしない。むしろ淀屋がそうであったように、徳川家に協力したほうが多くの利得が期待できるとなれば、すり寄ることに躊躇はしない。

だが、そこは面従腹背の世界。

腹の底ではなにを考えているのかわからない大坂町人らの気を引こうと幕府も必死だったのである。

【後編を読む】“豊臣秀吉”への信仰が篤い「大阪人」を懐柔するために江戸幕府が「道頓堀」に潜ませた仕掛け

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