「僕が日本代表入りした大学1年の頃は、観客席が埋まっていない状態でした。でも、今はどこも満員。本当にありがたいです」(撮影:岸隆子〈Elenish〉)

写真拡大 (全2枚)

今、バレーボール男子日本代表が熱い。2024年パリ五輪の競技別視聴率では、バレー男子が1位。その人気は日本に留まらず、東南アジアでも自国の代表以上に熱視線が注がれる。そんなスターチームを率いる主将が、絶対的エースの石川祐希選手だ。揺るぎない強さの秘密と素顔に迫った(構成:吉井妙子 撮影:岸隆子〈Elenish〉)

【写真】所属するチームが欧州チャンピオンズリーグ初優勝したときに

* * * * * * *

世界選手権で見えた主将としての課題

とても多くの方に応援していただいているということは、常に感じています。2025年9月に世界選手権でフィリピンのマニラに行った際、僕たちの巨大なパネルがあちこちに並べられていてビックリ。少し恥ずかしかったですが、モチベーションが上がりました。

僕が日本代表入りした大学1年の頃は、観客席が埋まっていない状態でした。でも、今はどこも満員。本当にありがたいです。

だからこそ世界選手権ではメダルを獲りたかったのですが、残念ながら予選リーグで敗退してしまいました。直近の大会ではいい成績を残せていたし、応援してくださる方々の期待をひしひしと感じていただけに、情けないし悔しかった。

敗因はいろいろあると思いますが、主将である僕が判断を見誤ったことにもあります。負けた時に責任を負うのは主将だと、僕は思っているので。練習の時からチーム自体はでき上がっていて、「なんとか勝てるだろう」と思っている自分もいたのですが、少し違ったかもしれません。

代表チームは24年から監督が代わり、新しい選手が加入しました。今大会ではスタメンにも若い選手たちが投入されたのですが、彼らは自分のプレーに徹するので精一杯だったように思います。

初めて大きな国際大会を経験する選手もいたので、当たり前です。そんな彼らを、僕たち経験豊富な選手がもっとフォローできたはず。そして、練習の時からチームの意識をしっかり統一すべきでした。

僕は基本的に、言葉で伝えるより、自分のプレーでチームを引っ張っていくタイプです。東京五輪、パリ五輪でも主将を務めさせていただきましたが、その時の代表選手はほとんどが先輩か同年代。何も言わずとも僕の思いを感じ取ってくれたので、そこに助けられていた部分が大きかった。

チームの目標を明確に理解しているかどうか、意識を高められているかどうかで、練習の質はガラッと変わります。今回、練習中に緊張感が欠けてしまう瞬間がありました。そんな時に、「言葉」で伝える技術も必要だと感じたんです。

たとえば、同じ言葉を投げても、心に響く人もいれば響かない人もいる。だから僕自身が語彙力を鍛え、場面や相手によって適切に言葉を選択できるようにならなければいけないな、と。

今はまだ、正解を探している最中ですね。若いチームをどう育てていくか――それが僕の今後の課題です。新しい課題が見つかったという意味では、世界選手権での負けも、28年に開催されるロス五輪への飛躍のきっかけになったと思います。

考えてみれば、僕が代表に入った頃は先輩たちがあまりにも大きく見えて、毎日緊張していました。今の若い選手も、僕に対して同じような思いがあるのかもしれません。

6歳年下の高橋藍(らん)などは年齢に関係なく僕をイジりますが、正直ありがたいです。言葉で茶化す時もあれば、ボディタッチでイジってくる時もある。そんな姿を見て、若い選手たちが距離を縮めてくれたら嬉しい。

ただ、ふざけてお尻を叩くのは単純に痛いのでやめてほしいです。叩いたら3倍で返すよ、と彼らには伝えています。(笑)


2025年9月の世界選手権、自身のプレーでチームを牽引しつつ、メンバーに声をかけて士気を高める石川選手(写真提供:YUTAKA/アフロスポーツ)

初めて打ったスパイクは格別だった

石川祐希選手は、1995年愛知県岡崎市に生まれた。1歳上の姉、5歳下の妹(石川真佑(まゆ)=バレー女子日本代表主将)の3人きょうだい。父は陸上、母はバスケットボールの実業団選手だった。親譲りで、運動するのが大好きな子どもだったという。

――子どもの頃は、やんちゃでした。女きょうだいに囲まれると穏やかに育つと言われますが、僕は正反対。ザ・悪ガキでしたね(笑)。体を動かすのがとにかく好きで、小学生の頃は、休み時間が近づくと早く外で遊びたくて、ボールを持ちながらソワソワ。先生には、「まだ授業中だぞ」とよく注意されていました。

それだけなら可愛いものですが、下校してから仕事中の母に「遊びに行っていい?」と電話した時、ダメと言われて、固定電話の電話線をハサミで切ったことも……。なぜそんなことをしたのかわかりませんが、子どもなりの反抗だったのでしょう(笑)。

「親を困らせてやろう」と何か問題を起こすたびにこっぴどく叱られ、父からは鉄拳を食らったこともありました。

そんなやんちゃ坊主が小学4年生でバレーボールを始めたのは、姉の影響。姉がバレーボールのクラブに入っていて、その練習についていったんです。そしたら監督の奥さんがスパイクの助走やジャンプの仕方を教えてくれたうえに、練習試合の最中に監督が僕をコートに入れてくれて。そこでスパイクを打ったら一発で決まり、その快感が格別だったんです。

当時はサッカーやバスケに夢中で、少年野球チームにも入ったばかりでしたが、バレーボールに転向(笑)。僕は負けず嫌いな性格なので、「絶対に一番になりたい」という思いが芽生え、徐々にのめり込んでいきました。

海外での挑戦に不安がなかった理由

石川選手は高校2年時にインターハイ、国体、春高バレーの3冠を制し、主将として迎えた3年時にも3冠を果たす。その後、中央大学在学中に日本代表入り。現在はイタリアの強豪・ペルージャで活躍中だ。世界最高峰のリーグ・セリエAで11シーズン目、25年11月には300試合出場を達成した。

――最初にイタリアに渡ったのは大学1年、18歳の時です。セリエAのパッラヴォーロ・モデナから短期契約のオファーをいただき、「行きたいです」と即答しました。でも、僕は当時、セリエAに世界各国からトップ選手が集まっていることも知らなければ、どんな選手がいるのかも知らなくて。単純に、海外でバレーをやってみたいという一心でした。

もしセリエAのレベルの高さを知っていたら尻込みしたと思いますが、無知だったからこその強みというか、不安がまったくなかったんです。

ただ、振り返るとあの頃が一番大変でした。セリエAシーズンの10月から3月までイタリアに渡り、シーズンが終われば帰国して学生に戻る、という生活。その合間に大学の全日本インカレに出場し、日本代表として国際大会にも行く。そしてまたイタリアへ……。かなりハードなスケジュールで、体をケアする時間がなかったので、怪我が多かったですね。

大学の授業の単位は、1、2年でほぼ取っていました。法学部政治学科だったので「将来は弁護士ですか」と聞かれることもあったけれど、僕はバレーに専念したくてこの学科を選んだんです。

政治学科には運動部の部長を務めている教授が多く、学生アスリートにも理解がありましたから。単位が足りなくなると、レポートで代替していただいたり……。その点は本当にありがたかったです。

大学卒業後は、イタリアでプロ選手として生きていこうと決めました。日本のバレーボール選手の多くは企業に所属し、社員選手としてVリーグ(現・SVVリーグ)に出場します。企業に所属すれば毎月給料が出ますし、怪我をした際の保障など、サポート体制も手厚い。でも僕は安定より、自分で責任を負う道を選びました。

セリエAで戦う選手たちは、全員プロ。バレーに人生をかけ、覚悟を決めて取り組み、母国に戻ると五輪の舞台で、全身全霊で戦います。そんな選手たちの姿をモデナで見ていたので、僕も自分の責任で戦うプロとして世界に挑みたいな、と。

日本の企業からは身にあまるような好条件でオファーをいくつもいただきましたが、イタリアでゼロの状態から勝負することにしたんです。

<後編につづく>