杉咲花は令和の“小悪魔女子”? 『冬のさ春のね』と『モテキ』に共通するヒロイン像
現在放送中の『冬のなんかさ、春のなんかね』(日本テレビ系)で杉咲花が演じる土田文菜は、いわゆる「モテ女子」とは明らかに違う質感を持っている。派手な恋愛テクニックを使うわけでもなく、分かりやすく愛想がいいわけでもない。それでも、なぜか人の視線を引き寄せ、気づけば周囲の感情を動かしてしまう……。“なぜか気になる”魅力にあふれた存在だ。
参考:『冬のなんかさ、春のなんかね』は“ふつうの恋愛”を問い直す 今泉力哉の新たな性愛解釈
文菜は第1話で出会った成田凌演じる美容師・佐伯ゆきおと交際を続けつつ、先輩小説家の山田(内堀太郎)や、自分のことを好いているであろう友人、小太郎(岡山天音)とも曖昧な関係を持ち、時にはホテルにまで行ってしまう。決して“誠実な恋愛”とは言いがたい振る舞いだが、裏を返せば、それほど“モテる”女の子であることがわかる。
この在り方は、かつての恋愛ドラマで語られてきた「小悪魔女子」という概念ともどこか重なりつつ、決定的に異なる。平成的な“小悪魔”が、男性の欲望を理解した上で意図的に振り回す存在だったとすれば、杉咲花演じる文菜は、自然に人の感情を揺らしてしまうタイプ。いわば彼女は「令和の小悪魔女子」と呼ぶべき存在なのかもしれない。
象徴的なのは、彼女の感情の出し方である。喜怒哀楽はどれも控えめで、冷笑的。しかしその奥には、悩みや迷いがうっすらと透けて見えるような、捻くれと素直さが同居している。「失うことが怖いから、好きにならない人を好きになる」という歪な恋愛観を語っている。しかしその反面、好きになってくれる小太郎とは絶対に付き合わないし、第3話で憧れの先輩・山田と電話する表情は恋する乙女そのものだったりする。“モテる”ために行動するのではなく、感情のままに動いているだけ、それが漏れ出てしまっている。カッコつけすぎちゃってダサい、のような矛盾のある“人間臭さ”が文菜の最大の魅力となって表れる。この隠しきれないちょっぴり傍若無人な素直さや不器用さに、周りの登場人物、ないし視聴者は惹かれてしまうのだろう。 ここで思い出されるのが、恋愛ドラマにおける「THEモテ女子像」の代表格、映画『モテキ』(2011年)の長澤まさみだ。長澤が演じたヒロインの松尾みゆきは、明るく、よく笑い、感情表現も豊かで色っぽい。「魅力的であること」が誰の目にも分かる存在だった。男性視点で見た理想のヒロイン像が、比較的ストレートに提示されていた時代の象徴である。
一方、杉咲花の土田文菜は、感情を過剰に説明しないし、恋愛そのものが人生の中心に置かれている印象もない。優しすぎるゆきおのことは大切に思っているが、友達のように振る舞えて、多少強く出ても自分を嫌いにならない楽さのある小太郎に甘えてしまうし、「帰る場所」があるからこそ、誠実とは言えない山田の思わせぶりに、ほんのり浸ることもできてしまう。そうして生まれ出た自分の感情を、延々とループするように考え続けている。
このナチュラルな狡さと、一生懸命に生きている素直さ。その両方が同時に存在しているところに、文菜というキャラクターの色気がある。彼女の魅力は、ステレオタイプな「小悪魔女子」の恋愛テクニックではなく、「生き方そのもの」から滲み出ているのだ。
この変化は、単なるキャラクター造形の違いというより、恋愛観そのもののアップデートを映しているようにも思える。かつての恋愛ドラマにおいて「モテ」とは、いかに他者から求められるか、いかに愛される存在であるかが重要だった。しかし現代のヒロイン像は、必ずしも“他者からの評価”を軸にしていない。むしろ、自分の感情や生活を優先し、その結果として誰かに好意を向けられる、という構図が増えている。
今泉力哉作品のヒロインに共通しているのも、この「自己完結性」だろう。彼女たちは、誰かのために存在しているのではなく、自分自身の生活と感情の延長線上に恋愛がある。だからこそ、過剰に媚びることもなく、分かりやすく愛想よく振る舞うこともない。時に怒り、時に泣き、時にダサくもなる。その“自然体すぎる距離感”が、リアルで、そして現代的な魅力として映る。
『モテキ』の長澤まさみが体現していたのが、恋愛ドラマ黄金期の“理想のヒロイン像”だとすれば、『冬のなんかさ、春のなんかね』の杉咲花は、恋愛が人生の中心ではなくなった時代のヒロインだ。モテることにそれほど価値を置かず、自分の生活を大切にしながら、それでも誰かと関係を結んでしまう。恋愛的な魅力よりも、人間的な魅力。杉咲花演じる土田文菜は、その曖昧で矛盾だらけな人間味そのものが、「令和のモテ」を象徴する存在なのかもしれない。いわゆる「今っぽいモテ女」を演じる杉咲花がこの先どうなっていくのか、ゾクゾクさせられる気持ちでいっぱいだ。(文=結理乃)
