1895年のアフリカに28人の日本人女性がいた…奴隷貿易で栄えた世界遺産の島に刻まれた「からゆきさん」の足跡
※本稿は、関根 虎洸『迷宮ホテル 異国の路地と宿の物語を彷徨い歩く』(辰巳出版)の一部を再編集したものです。

■オペラ「椿姫」由来の名を冠した部屋
ザンジバル・エマーソン・スパイス(タンザニア/ザンジバル島)の天井の高い部屋には、紫色のカーテンと天蓋付きのベッドが設えられている。エキゾチックな雰囲気が漂う部屋の名前が「ヴィオレッタ」と知って、私はすっかり紫色を意味するバイオレットのイタリア語だろうと思い込んでいた。

しかしホテルのホームページから、ジュゼッぺ・ベルディのオペラ「椿姫」の主人公ヴィオレッタにちなんで名付けられていることが分かった。椿姫の題名くらいは知っていたが、私はそれまで物語の内容を知らなかった。ちなみに椿姫の原題「ラ・トラビアータ」を直訳すると「堕落した女・道を踏み外した女」を意味する。これは主人公のヴィオレッタがパリの社交界を舞台にした高級娼婦だったからに他ならない。
4階建てのホテルには内装が異なる11部屋があり、各々の部屋に名前が付いている。アンティークのインテリアはすべてスワヒリとアラブの伝統様式がミックスされたスタイルだ。かつてはアラブのスルタン(君主)が所有し、その後は香辛料を扱うインド系の貿易商が使用する建物だった。
建物のもっとも古い部分は1836年の調査に記録されているというから、築180年を超える建物ということになる。アラブ様式の古い建物はザンジバルで最初の観光ホテルの一つ“スパイス・イン”として営業を開始するが、やがてアメリカ人オーナーによって改修され、2011年に“エマーソン・スパイス”という名のホテルに生まれ変わったのだ。
■装飾が“アフリカらしくない”歴史的理由
東アフリカのタンザニアにあるザンジバル島はインド洋に浮かぶザンジバル諸島の主要島であるウングジャ島を指すが、ホテルの装飾に“アフリカらしさ”を感じないのは複雑な歴史に関係している。

ザンジバルは古くからムスリム商人によってイスラム化が進み、奴隷、象牙、香辛料貿易の拠点として繁栄した。バスコ・ダ・ガマによるポルトガルの東アフリカ進出に始まり、17世紀末から19世紀末にかけてオマーンの支配下となる。
その際、1832年にオマーンのスルタンはザンジバルに首都を移して王宮を建設した。エマーソン・スパイスの建物の原形はこの頃に建てられている。1890年にはイギリスの保護領となり、植民地だったインド人の移住が増大していく。その後、独立からザンジバル革命を経て、1964年にタンザニア連合共和国の一部となった。
アラブ人、インド人、アフリカ人が暮らすザンジバルは、それらの異なる民族が共存しながら独自の文化を織り成している。オペラ椿姫の内容を知って、私は物語の面白さに魅せられた。
ヴィオレッタと名付けられた部屋には居心地の良いバルコニーがある。バルコニーから路地を見下ろすと、行き交う人々の様子から暮らしが見えてくる。道を隔てた向かいのモスクから流れてくるアザーンを聞きながら、私はしばらく路地を眺めていた。
■日本語のロゴが入ったトラックが道を走る
インド洋に浮かぶザンジバル島のストーンタウンは、3階建て以上の白い石造建築が連なり、その間に細い路地が張り巡らされている。迷宮のような街にはアラブ、インド、アフリカ、ヨーロッパがミックスしたエスニックな雰囲気が漂っていた。ヒジャブをかぶり、鮮やかな色遣いの布を纏う女性たち。「ニーハオ」と言いながら駆け寄ってきた子供や赤い服を着た眼光の鋭いマサイ族の男たち。香辛料の匂いが漂う路地で様々な人たちとすれ違う。
また路地を出ると日本から輸出された「○○運送」「○○幼稚園」と書かれた中古車が街を走り、海岸沿いを歩けば、青い海の沖に帆を建てたダウ船が見える。
古くからアラブ商人たちによる貿易が盛んだったザンジバルは、大航海時代になるとポルトガルによって占領される。代わって島がオマーンに支配されると、ザンジバルは象牙や香辛料、奴隷売買の拠点として最盛期を迎える。そして1832年にオマーン帝国はザンジバルに王宮ストーンタウンを建設したのだった。
当時の雰囲気を色濃く残す古い街並みは、東アフリカ地域における特異な歴史的景観として、2000年に世界遺産として登録された。
■かつて税関長が建てた港の上のホテル
ストーンタウンのエマーソン・スパイスから徒歩5分の場所に、エマーソン・オン・フルムジというホテルがある。エマーソン・スパイスよりも5年早い2006年に開業した姉妹ホテルで、1870年代に税関長を務めた島の有力者によって、建物は港を見渡せる高さに建てられた。それは自分の船や貴重な貨物の様子を確認するためだったといわれている。
私にはフルムジを訪ねたい理由があった。ザンジバルのべストレストランとして評判の高い「ティーハウス」は、フルムジの建物内にあったからである。4階まで階段を上がると、屋上のルーフトップレストランには床にペルシャ絨毯が敷かれ、低いテーブルが並んでいた。
コースは18時のサンセットカクテルから始まる。陽が沈みマジックアワーとなった頃、ザンジバルの伝統音楽ターラブの演奏が始まった。テーブルにランプが置かれ、料理が運ばれる。ターラブの演奏を聞きながら、テーブルに運ばれてきた料理は、どれも素晴らしく美味しかった。
心地良い潮風に当たりながら街を見下ろすと、入り組んだストーンタウンの向こうに港が見える。わずかに動く船を眺めながら、港が見えるように建物の設計を依頼した島の有力者のことを思い出した。

■かつて奴隷貿易で栄え、今は欧米人の人気観光地に
迷宮都市と呼ばれるストーンタウンを歩きながら、私は“ジャパニーズ・バー”を探して入り組んだ路地を彷徨っていた。
日本人にとってほとんど馴染みのない東アフリカに位置するタンザニアのザンジバル島に、かつて“ジャパニーズ・バー”があったということを知ったのは『ザンジバルの娘子軍』(白石顕二著、社会思想社)を読んだことがきっかけだった。
インド洋に浮かぶザンジバル島は、エメラルドグリーンのビーチとサンゴ礁に囲まれている。近年はビーチリゾートの開発が進み、欧米人の観光地として人気が高い。アラブやヨーロッパに支配された歴史的背景から独特な景観の旧市街ストーンタウンは、街そのものが世界遺産に登録されている。文字通りストーンタウンは石造建築によって形成されている。
またザンジバルを語る時に忘れてならないのは、かつて奴隷貿易によって繁栄した歴史だろう。現在、旧奴隷市場跡に建てられたアングリカン大聖堂には今も負の遺産として奴隷が収容されていた地下室などが公開されている。
■アフリカで最も多くの“からゆきさん”がいた街
またザンジバルと日本人は古くから縁があった。

からゆきさんとは九州地方の言葉で明治初期から昭和の初め頃までに海外へ出稼ぎに行った日本人を指すが、本来は女性に限った言葉ではなく、当時は外国へ行くことを総称して「唐(中国)へ行く・からゆき」と呼んだのだ。
そして、からゆきさんの多くは娼婦だった。先の書籍『ザンジバルの娘子軍』は「日本の海外進出の尖兵」を意味する娘子軍という言葉を使っている。多くのからゆきさんが働いたシンガポールでは日露戦争後の1906年(明治39年)に約100軒の娼館があり、1000人近い日本人娼婦がいたとされる。軍隊よりも先んじて現地へ滞在する彼女たちを尖兵と呼んだのだ。
からゆきさんが働いた場所は主にアジアが多かったが、その渡航先は広範囲だった。日清戦争後の1895年(明治28年)にアフリカでもっとも多くのからゆきさんがいたザンジバルには28人の日本人女性が働いていたといわれている。
■70年前までからゆきさんが暮らした部屋が今も残る
私はホテルのボーイに「ジャパニーズ・バーを探している」ことを伝えた。すると、あっさり場所を教えてくれたのである。地図で確認すると直線にすればホテルからの距離は約200メートル。10分もあれば到着できるだろうと考えていた。しかし入り組んだ路地に迷いながら、1時間近くかかっただろうか。いずれにしても、かつてジャパニーズ・バーがあった建物にたどり着くことができた。
長屋の「520」番地が、かつてのジャパニーズ・バーだ。軒先に立つと、そこは土産物屋になっていた。店内にはアラブ系の女性店主がいた。
「ここはかつてジャパニーズ・バーだった建物ですか」
「はい、そうですよ」
愛想の良い女性は笑みを浮かべている。店は暇そうだ。
私は店内を見渡し、埃のかぶったTシャツを手に取った。値段を聞くと明らかに相場よりも高かったが、言い値で買うことにした。
「お願いがあります。2階の写真を撮らせてもらえませんか」
女性は目を見開いて「OK」と頷き、店の奥にある扉を開けて手招きした。
最後のからゆきさんがザンジバルから日本へ帰国したのは、1959年(昭和34年)だった。

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関根 虎洸(せきね・ここう)
フリーカメラマン
1968年、埼玉県生まれ。著書・写真集に2001年『DOG&GOD』(情報センター出版局)、2012年『Chelsea・桐谷健太』(ワニブックス)、2018年『遊廓に泊まる』(新潮社)他。現在も国内外の様々な宿泊施設を取材している。元プロボクサー。ボクシングトレーナーとしても活動中。
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(フリーカメラマン 関根 虎洸)
