Twitterで何気なくつぶやいた就職氷河期世代である自分のホームレス体験談と、その後の意外な復活劇が多くの反響を呼んだらしく、こうやって寄稿させていただく機会を得ることになった。

 あくまでも一個人の体験談ではあるのだけれど、それでも誰かの役に立てばと、一部、細部を伏せながら書いてみようと思う。

「一生このままなのだろうか」住まいを失った、2006年夏

 何もすることがない――というより、何もすることができないというのが正しい。アパートを借りようとすると、現在の住所や保証人のない私には貸すことができないと言われ、アパートがないため住民票を移すことができず、それを理由に神奈川県の役所は私の話を聞いてくれることはなかった。

 そうやって一日、一日と、何もできないまま過ごしていくうちに私の衣服は薄汚れ、風呂に入れないままの髪や顔は脂でべっとりとし、そして何より酷い臭いがするようになっていく。


写真はイメージ ©︎iStock.com

 2006年の夏、私はホームレスになっていた。

 昼間は夏の暑さをしのぐために身動き一つせずに日陰で過ごし、夜になると連れだって歩くカップルや家路を急ぐサラリーマン、酔っぱらって絡んでくる若者たちから身を隠すようになるべく人影のない場所へと移動する。

「一生このままなのだろうか」

 夜がくると決まって、これまでには味わったことのない先が見えないという恐怖がじわじわと身体中に広がり、歯と歯茎の間が浮くような感覚がしてズキズキと痛む。これはろくに食べ物を口にしていないことと、もう一つ、歯磨きをすることができなかったためで、この時の生活がたたり、現在、右側の下のほとんどの歯は人工のものに入れ替わっている。

両親が失踪するも、先生のすすめで大学へ

 私は大阪府で生まれ、南九州の先端の小さな田舎町で育った。かなり特殊な家庭環境で、小学生の頃に両親が失踪し、それ以降は兄とともに祖母や親戚などの家を転々として生活していた。

 そういう環境だったせいか、中学校がもうすぐ終わるという頃、漠然と卒業したら働くかと思っていたのだが、当時の技術科の先生に熱心に進学を勧められ、学費免除などの多くの支援を受けて、大学、そして大学院にまで進学することができた。これには今でも大変感謝している。

 しかし、この幸運もこのころまでで、大学院を修了する頃になると、世間は就職氷河期となり、私も例外なく、その影響を受けることになった。それでも手取り13万、日給月給制の契約社員というかなりの悪条件ではあるものの、何とか就職することができ、当時はただ本当にうれしかったことを覚えている。

3年間働いた会社で突然解雇を言い渡された

 そこから3年間、ただがむしゃらに研究開発職として働き、いくつかの特許製品を上市するなど、自分のなかでは次の契約更新で正社員になれるだろうと考えていた。

 ところが、その考えはあっけなく裏切られ、2006年の2月、勤めていた会社から解雇を言い渡された。

 頭が真っ白になったと同時に、すぐにこれがとんでもないことを意味すると理解することになる。当時の私は会社が契約者になっていた借り上げ社宅に住んでいて、ここを追い出されると実家もなく、住む家がなくなる。また、当然貯金もなければ、契約社員で退職金もでない。それどころか大学院までの奨学金と進学の際に親戚に借りたお金が借金として残っている。

再就職先での「2度目の裏切り」

 退職が決まってからすぐに様々な会社に再就職のために応募したが、そのどれもが不況を理由に採用がとても厳しく、いい返事をもらえることがないまま刻々と解雇の日が迫っていた。最後の1週間というところで神奈川県の会社から採用の話をもらい、私は急いでアパートの中の家具をすべて処分し、必要なパソコンと着替え類をキャリーバッグに詰め込んで、神奈川県へと向かった。

 そこで、私はもう一度裏切られることになる。

 横浜の採用通知をもらった企業を訪ねると、その場で会社の経営が厳しく私の採用が取り消しになったことを告げられたのである。その時のことを今でも覚えているが、目の前がまっくらになるというのはこのことかと初めて思ったほど、急に視界が暗くなっていく。

 と同時に、佐賀に戻ろうにもすでにアパートも家財道具もない、実家はすでに誰もおらず、親戚に借金をしている状態のため、戻ろうにも戻れない。最初の一ヵ月は手持ちのお金を少しずつ切り崩しながら、ネットカフェや、当時まだ横浜にもあったユースホステルに泊まっていたものの、それも長くは続かず――ついに私はホームレスとなった。

携帯電話だけは手放さなかったことが功を奏した

 どんどんと自分の身や心が壊れていくのをひしひしと感じるそんな絶望的な状況のなかでも、連絡手段がなくなるのはまずいと直感的に思い、何日も食べない日が続くようなことがあっても、契約していた携帯電話だけはなんとか維持し続けた。

 そしてこれが功を奏して、当時、携帯電話だけで登録できた看板持ちのアルバイトをすることができることになり、日給5千円で川崎駅から市役所前の通りでマンション販売の看板をもって立ち続けた。1週間フルにアルバイトを入れると結構な金額になり、それを使って、シャワーを定期的に浴びられるようになり、そこからまた就職活動を再開することにした。

 しかし、ここでも現住所がないことが裏目に出てなかなか就職先が決まらない。

「会社名義でアパートを借りてみては?」知人の意外な提案

 途方に暮れていると、大学院の時に研究でお世話になった企業の社長に会う機会が突然やってきたのである。この時の私は「あわよくば就職させてもらえないか」というつもりで、横浜の飲食店に向かい、こちらの状況を酒も飲まずに説明すると、その社長は意外なアイデアを提示する。

「会社を立ち上げて、会社の名義でアパートを借りてみては?」

 当時、私の専門分野でもあるバイオテクノロジー業界ではバイオベンチャーブームが起こっていて、大学の先生が研究内容を使ってベンチャー企業を立ち上げるのが流行っていた。借りる家もないような状況でそんなことを想像できるはずもなく、面食らっていたところに、社長はどんなものが必要かなど一つ一つ説明したうえで、設立に必要な金額を支援すると言ってくれたのである。

 その日はユースホステルの予約が取れず、そのまま人気のない公園でベンチに座り、手書きで創業計画を作り始めた。何度か酔っ払いとガラの悪い男に絡まれつつも、一晩で作り上げたそれを社長のもとに持って行き、添削してもらい、さらにそれをブラッシュアップしてまた見てもらい……ということを何回か繰り返し、その他の支援もいただいて、私はついに自分の会社を設立することができた。

 手元にはスキルとノウハウ以外は何もなかったものの、先方の紹介ですぐにいくつかの仕事を得ることができ、そして、なんと実際に会社名義でアパートを借りることができたのである。

 こうやって、住む場所(兼職場)を得た後は、大学や自治体からの仕事を中心に仕事を受注することができるようになり、収入が少し安定してきた。そこで、相鉄線沿いの安いアパートを自分で借りることを決め、2007年も終わりになる頃、ついにホームレスを脱出することができたのである。

ホームレスから4年、目標だった大学教員に

 その際に作った会社は紆余曲折を経て人の手に渡り、私はまた無職となった。

 しかし、前回のホームレスの経験が活かされたのか、それほど落ち込むこともなく、とにかくすぐに就職したいと、月給手取り15万で東北地方のある大学の非常勤職員の職を見つけ、そこで再起を図ることにした。

 真冬の東北地方で数カ月間雪に埋もれながら、今度は元々の専門であった遺伝子工学の研究を行う大学教員の就職を目指して、非常勤の仕事と並行して、何通も応募書類を送り、その返事をただひたすら待った。

 そして、2010年の春先――ホームレスになってから実に4年もの月日が経ったのち、私は大学院を修了した際の目標の一つであった大学教員として富山県の大学に採用されることになった。

 この採用時も、採用側にとても熱心な教授たちがいたことや、当時の雇用先の大学の教授が快く送り出してくれたことなど、多くの人の支援で実現することができたと思っている。もちろん、この大学でもすんなりといかず、実験器具を一からそろえたり、研究費が年間20万円しかなかったりと多くの困難があったものの、無事、任期を満了することができ、とても充実した10年間だったと思っている。

 現在はアメリカに渡り、フロリダ州にある非営利の研究機関で、専門である遺伝子工学、特にゲノム編集技術を使った遺伝子改変動物を作製する研究に従事している。ホームレスをしていた頃やその前の契約社員の頃には考えられなかったが、年収は600万円以上を維持し、慣れない英語に苦労しているものの充実した生活を送っている。

モデルケースから転落すると、復帰しにくい日本の制度

 このような私の一連の出来事を振り返ってみると、ポイントとなる場面で多くの方の支援をいただけたことがカギになっていると考えている。当時の日本は不況下で他人に気を配る余裕がなかった社会情勢ではあったものの、良い人の巡りに助けられたとも言える。

 ホームレスになってしまうと、あるいはそこまではいかなくても一度モデルケースから転落してしまうと、なかなか復帰できないのが日本社会の難しいところでもあると感じている。

 こう書くと、アメリカを称賛するいわゆる出羽守のように聞こえるかもしれないが、私はむしろ日本の生活の方が居心地はいいと感じている。

 最近、アメリカで入院も体験したが、こちらはすぐに病院にアクセスするのはそんなに容易くはなく、さらに保険など医療面でのハードルは高い。またスーパーに並ぶ食品の衛生管理も圧倒的に日本の方が優れている(一部が腐ったような状態で陳列されていることもそれなりの頻度である)。

 その安心・安全で、健康的に住みやすい日本をこれからも維持していくためには、かつての私のような転落してしまった人間をどう再起させるのかということを、色々な角度から考える必要があるのかもしれない。そして、これはおそらくアフターコロナでも重要になってくるだろうし、中国、韓国と同じく、いち早く感染者数が落ち着き始めた日本が手本になることを期待したいと思っている。

(トクロンティヌス)