「おめでとうなんて言わないで!」妊娠初期の妊婦にプレッシャーをかける言葉とは
新しい命をお腹に宿し、赤ちゃんとともに過ごす十月十日。
花冠をつけて、マリア様のようにやわらかく微笑むマタニティーフォトの裏側には、さまざまな物語がある。
たくさんの笑顔と涙に彩られるマタニティーライフ。
あなたに会える、その日まで。
◆
市川優は、独立したばかりのテキスタイルデザイナー。結婚5年目の33歳だ。
不妊治療の末、ようやく待望の赤ちゃんを授かった優。
喜びを感じるのつかの間、つわりと情緒不安定に襲われ夫の亮介にも辛く当たってしまう。

「どうしよう…亮介」
「すぐ、車出す!病院へ行こう」
生理二日目を超えるような出血量と、下腹部の鈍い痛み。良くないことが起きているのは、確実だった。
―もしかして、赤ちゃんダメ?流産なの?
最悪の事態を想像するだけで、心臓の鼓動がどんどん早まり、血の気が引いていく。
急いで車に乗り込んだものの「ダメかもしれない」という悪いイメージに感情が支配され、亮介の前向きな励ましがまったく心に響かない。
「大丈夫だよ。赤ちゃん絶対無事だから。信じよう」
「そう思いたいけど…」
優の弱気な言葉に対し、亮介は深呼吸をしてからきっぱりと言い切った。
「いや、大丈夫だ。赤ちゃんと一緒だし、安全運転で行こう」
まるで自分に言い聞かせるような口ぶりでそう言うと、まっすぐ前を見据えながら、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
向かった先は不妊治療のクリニックではなく、近くの総合病院だ。通っているのはあくまで不妊治療専門なので、切迫流産などの治療は行っていない。次回の来院までに妊婦健診を受ける病院を決め、紹介状を書いてもらって卒業という流れだったのだ。
じっくりと産院を考えるつもりだったので、まだ健診に通う病院も決めていない。近所の総合病院には産婦人科があるため、ひとまずそこに電話をして駆け込むことにする。
土曜日の午後で、一般の外来の時間外だ。シーンとした待合室で、ただただ二人で無事を祈っていた。診察室に呼ばれ、簡単に症状を伝える。内診を受ける間も優の胸は、不安と混乱で張り裂けそうだった。
産婦人科の女性医師は内診台のカーテンを開けると、横たわる優に向かって、エコーの画面を指差した。
「市川さん…ここなんですが…」
産婦人科医が告げた言葉とは?
「見えますか?動いているの見えますか?心拍がはっきり見えますね」
「え?!」
「赤ちゃんは大丈夫ですよ。8週目ですよね。大きさは順調ですよ」
「よかった…」
赤ちゃんが無事だという報告とともに、予期せぬ流れで心拍確認までできてしまった。小さいながらに力強くピコピコと脈打つ鼓動に感動しながらも、出血していることは事実なのだ。不安は拭えない。
「妊娠初期の出血は多くの妊婦さんが経験することで、妊娠の継続に影響がない場合も多いです。今回の出血は大丈夫でしたが…ただ、気になる点があります」
「え?」
少々顔を曇らせた女性医師は、続きは診察室で話しましょうと告げた。

「市川さん、血液検査の結果ですが、黄体ホルモンが著しく低いですね。このままでは妊娠の継続が難しいので、ホルモンの補充をして数値を上げる必要があります」
妊娠の継続が難しいという言葉に、再び心臓が締め付けられるように苦しくなる。
すかさず質問したのは、診察に同席していた亮介だった。
「薬を飲めば数値が上がりますか?妊娠継続の可能性はどれくらいなんでしょう?」
”玉木絵里子”という名札を胸につけた医師は、不安そうな夫婦を安心させるように柔和な微笑みを見せる。
「初期の流産は出血があってもなくても、可能性としてはありえることです。この時期だと母体ではなく受精卵の問題ですので。ただ、ホルモン剤の効果は期待できますよ」
「そうですか。よかった…。な、優」
しかし、ホッとしたのも束の間。玉木医師は表情を引き締めると、言い聞かせるように言葉を続ける。
「ただ…より効果を望むため、服薬ではなく注射の方がいいでしょう。毎日することになります。それに現状、流産のリスクがある”切迫流産”という状態ですので、安静は必要です。毎日通院するというのは負担があるかと思うので、念のための入院をお勧めしますが」
優と亮介はすぐに目を合わせて、お互いの意思を確認する。小さく頷きあうと、優は即答した。
「入院させていただきます」
「わかりました。そうした方がいいと思います」
仕事のことが一瞬頭をよぎるも、授かった命を守ることが最優先なのは、当然のことだ。
そのまま病棟に案内され、即日入院の手続きを行うことになった。
「まさか、来た足で入院することになるなんて…」
優はそうとまどいながらも病室で待機し、必要な荷物を亮介が取りに戻る。パソコンとタブレットさえあれば、なんとか今抱えている仕事はできるだろう。ただ、メインパソコンではないし、資料も足りない。打ち合わせや現場に出向くことも当面できない。
こんなときに限って運悪く、亮介は翌日から出張で一週間ほど不在になる。
「断ろうか」という提案は、断固、優が拒否した。自宅療養ならともかく、病院の管理下で安静に過ごすのだ。病気による体調不良というわけでもなく、ホルモン剤の投与が目的なので、献身的に支えてもらうというものでもない。
「これから起こり得るすべてのトラブルのために、あなたがいちいち仕事を休むわけにはいかないし。むしろ、私の仕事が不安定になる分、しっかり働いてもらわなきゃ」
そう言って亮介を納得させたが、急な入院である。細々とした雑務を頼むためにも実家に頼ったほうが良さそうだ、と結論を出した2人は、その晩、優の母親に妊娠発覚と入院について伝えることになった。
「お母さん、まだ安心しないでね。初期も初期だし、出血もあって入院しているわけだし…」
しかし、母親の反応は、悪い意味で想像通りのものだった。
娘からの妊娠報告に、母親が取った行動とは?
言葉を選んで伝えたはずが、嫌な予感は的中する。
母親の悦子は「ああ、良かったわ!夢が叶った」と泣き叫ばんばかりに大喜びをしたかと思うと、切迫流産という状況にあたって「体に良い○○がある」と根拠のなさそうな民間療法について熱弁し始めるのだった。
案の定、翌日すぐに悦子は病院に飛び込んできた。
家のゴミ出しや郵便物の投函などの細々とした諸用を頼んだので、お見舞いに来るのは仕方がないことだ。しかし、病院を訪れた悦子はなんと、優の叔母である自分の姉と、優の兄嫁である千波を引き連れて来てしまった。
叔母の聡子は優の顔を見るなり、「おめでとう」と優の手を力強く握る。
突然現れた予期せぬゲストに優が面食らっていると、
「男の子だわ!私、顔見ればわかるの」
と、得意満面な顔で言い放った。
一方、その隣で所在なさげに立っている兄嫁の千波は「優ちゃんが急病と聞いて、呼び出されて…」と、いまいち状況をつかめていない様子だった。
千波は、商社でキャリアを積んだ44歳。4歳の娘を抱えるワーキングマザーで、多忙な毎日を送っている。今日が日曜とはいえ、こんなことで呼び出された千波のことを思うと、申し訳なさで胸が痛んだ。
「千波さん、すみません。実は先日陽性の診断をもらったんですが、結局切迫流産で入院することになったんです。だから、緊急事態ではありますが、急病っていうのはちょっと意味が違う気が…。ごめんなさい。忙しいのに」
「平気よ。でも、あまりにも周りが盛り上がると優ちゃんも辛いでしょう。こちらこそごめんね。体も大変なのに押しかけちゃったみたいで…」
「いえ、こんな大掛かりなことになるなんて。…今日は寧々ちゃんはお兄ちゃんが見てるんですか?」
「そうよ。いとこができたら、寧々、絶対に大喜びする。お腹が大きくなったら寧々に教えてあげてね。無事に生まれてきたら、思い切りお祝いさせて」
「はい」
一切の押し付けがましさもない千波のセリフは、優が求めていた言葉そのもので、その気遣いに涙が出そうになる。しかし、そんな優と千波のやりとりを聞いていた悦子は、黙っていられない様子ですっとんきょうな声をあげた。
「千波さん、何言ってるの!今すぐおめでとうに決まってるでしょう?!無事に生まれるから大丈夫よ!だって、うちの家系に流産した人なんていないもの」
個室が埋まっているため、ここは大部屋だ。周りは妊娠に何かのトラブルを抱えた妊婦だらけという状況で、悦子の発言はあまりに軽率だった。
「お母さん!」
優がそう呼びかけたのと同時に、悦子を制したのは千波だった。
「お義母さん。私は三度流産しているんです。軽々しく口に出さないだけで、乗り越えている人はたくさんいますから、そういう言葉は慎みませんか。ましてやここは産婦人科ですし」
千波は言葉を選びながら伝えるも、悦子にはまったく響いていないようだった。不満げな表情を浮かべると、さらに無神経なことを言い出す。
「千波さん、流産だなんて縁起でもないこと言わないでちょうだよ。あなたはお嫁さんだからわからないかもしれないけど、私はうちの家系の体質の話をしているのよ。そういう家系じゃないから大丈夫」
悦子の発言と、横で頷いている叔母を見て、その無神経さに血の気が引いて来る。優に対しても、すべての妊婦に対しても、なにより苦難を明かしてくれた千波に対して、なんてひどいことを平気な顔でいうのだろうか。
悪意のない口調にめまいがする。ここが病院でなければ怒鳴っていたかもしれないが、優は状況を考え、ぐっと堪えた。
とにかく、悦子に妊娠について伝えるのはやはりまずかったと、優は激しく後悔した。
細々とした用事は、仕事仲間や友人、または千波にだけ頼むべきだったのだ。みんな忙しいから、と気が引けてしまっていたが、事情を説明すれば当然快く請け負ってくれたはずなのに、判断ミスに嫌気がさす。
なんとか悦子を病室から追い出そう。
そう考えていたとき、優のスマホが鳴った。

慌てて着信を見ると、仕事の取引先の番号だ。
―え?日曜なのに、どうして?
と、少し考えて「まずい」と気づく。
―私、やっちゃった。
仕事を、一つすっぽかしてしまっていることに気づく。
「優ちゃん、大丈夫?」
真っ青な顔の優を見て、千波が不安そうに問いかける。
「私、電話してきます…」
優はゆっくりと立ち上がり、廊下に向かう。
「優、せっかくお見舞いに来てあげてるのに、どこに行くの!?」
母親の呼びかけには、もう答えるつもりはなかった。
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仕事で大きなミスを犯した入院中の優だったが…

