短期連載・五輪記者オリヤマの追憶 ソルトレイクシティ(2002年)

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 過去最多の10個のメダルを獲得した長野五輪から4年。アメリカのソルトレイクシティで行なわれた五輪で日本のメダルはわずか2個に終わった。取材から帰ってきた際に「なんの取材に行ってたの?」と知人に聞かれたくらい、日本人にとって”寂しい五輪”になった。


ショートトラック1000m準決勝を、1位でゴールしたと思われた寺尾悟だが......

 表彰台に上ったのは、スピードスケート男子500mで銀メダルを獲得した清水宏保と女子モーグルで銅メダルを獲得した里谷多英。ともに長野五輪の金メダリストである2人が日本選手団を救ったと言えるが、特に清水には”心の強さ”を見せてもらった。

 2大会連続の金メダルを期待されていた清水だったが、大会直前の交通事故で腰を痛めていた。大会後に聞いた話では、かがんで靴下を履くこともできない最悪な状態だったという。

 それでもレース本番は、ライバルのジェレミー・ウォザースプーン(カナダ)が転倒するアクシデントがあったとはいえ、清水自身はケガの影響を感じさせない見事なスケーティングを披露した。1位になった選手の1本目が、明らかなフライングだったことが見逃されて金メダルは逃したが、その精神力は「素晴らしい」の一言に尽きる。

 ただ、清水、里谷以外の日本人選手が軒並み苦しい結果に終わったのは、長野五輪までとの強化費の差が影響したように思える。自国開催の五輪に向けて投入されていた多額の強化費が縮小され、たとえば飛行機は予約変更がきかない安いチケットになるなど、冬季競技に欠かせない海外遠征を万全な状態でこなすことが難しくなっていた。

 1999年くらいまで日本が圧倒的に強かったスキージャンプも、スキーの長さが規制されてから成績が低迷する。それまで「身長+80cm」のスキー板の使用が許されていたが、飛び過ぎを防ぐ狙いから「身長の146%」へと変更され、「小柄な選手が多い日本人に不利なルール改正」とも言われた。

 さらに、欧州ではスキージャンプの人気が上がり、大会が増えてスポンサーがつくなど、ビジネスとして成立するようになったことで海外選手たちの目の色が変わった。体重をしっかり調整し、規定により厚さが薄くなったジャンプスーツに特殊なスプレーをかけて通気量を少なくするといった工夫もするようになる中で、日本は最新の流れに置いていかれる形になった。

 さまざまなことに日本人選手は頭を悩ませていたのだろう。五輪に向けてコンディションをピークに持っていくことはできていたが、最初のノーマルヒル個人で葛西紀明が転倒するなど波に乗れず、ラージヒル個人で船木和喜が7位に入ったのが精一杯。団体戦も5位に終わった。

 自国選手のメダル獲得の報が届かない日本のメディアでは、ショートトラック男子1000mの決勝レースの映像が繰り返し流れることになったレースだ。

 決勝に残った5人のうち4人が転倒し、スタートから大きく引き離されていたオーストラリアのスティーブン・ブラッドバリーだけが難を逃れ、悠々とゴールラインを通過。”世界で一番幸運な金メダル”と大きな話題となった。

 ブラッドバリーは準々決勝、準決勝でも上位選手の転倒に救われていたが、準決勝で悲劇に見舞われていたのが、日本の寺尾悟だった。

 そのレースは、長野五輪の金メダリスト金東聖(韓国)と同銀メダリストの李佳軍(中国)がトップを争う展開になる。しかし、残り半周となったところで金が転倒し、最終コーナーで2番手だったカナダのマシュー・ターコットが李を巻き込んで転倒した。4位につけていた寺尾は準決勝をトップでゴールし、決勝進出を決めたかに思われた。

 しかしレース後、ターコットを後ろから押したとして、寺尾に失格の判定が下されたのだ。寺尾が前の3人に触れていないことは明らかで、誰の目から見ても”不可解な判定”だったが、それが覆ることはなかった。

 結局、同レースで2位だったブラッドリー、李、ターコットの3人が決勝に進んだ。ソルトレイクでは1500mの決勝でも同様の判定があり、2006年トリノ五輪からビデオ判定が導入されることになる。寺尾は2006年のトリノ五輪にも出場し、2010年のバンクーバー五輪への出場がかなわなかったところで引退。34歳まで現役を続けた”第一人者”は、最後まで五輪のメダルだけには恵まれなかった。

 また、今では欧米選手たちがしのぎを削るスケルトンでも、ある日本人選手が涙を飲んでいた。 

 スケルトンはソルトレイクシティ五輪で13大会ぶりに正式種目に復帰している。長野五輪での復帰の可能性もあったため、日本でも競技に取り組む選手が増えたが、その中で急成長を遂げていたのが越和宏(こし かずひろ)だった。

 1992年のアルベール五輪後、ボブスレーからスケルトンに転向した越は、指導者が皆無の状態ながら徐々に力をつけ、2000年のW杯長野大会では優勝も果たしている。

 体格が大きい選手のほうがスピードが出やすいスケルトンにおいて、小柄だった越はコースや道具の研究を重ねてハンデを埋めた。当時はまだ海外選手の強化がそこまで進んでいなかったこともあり、ソルトレイクシティでのメダル獲得を視界に捉えていたが……。

 競技当日、私がホテルを出ると、前日までの快晴がウソのように雪が降っていた。大会前、越と「あと心配なのは雪だけだね」と言っていたことが現実になってしまった。

 会場に着くと、水分を多く含んだ雪がコースに積もっていた。ただでさえ体重の軽い越のソリはスピードに乗り切れず、結果は8位。日本人選手として30年ぶりとなる同競技の入賞は果たしたが、メダル獲得のチャンスを逃してしまった。

 競技が終わった後でインタビューに答えてくれた越は、苦笑いを浮かべてこうつぶやいた。

「なんで今日の、しかもスケルトンのレースに限ってって感じですよ」

 ちなみに、大会期間中に雪が降ったのはその1日だけ。越が肩を落とす背後では、雪がやみ、雲ひとつない青空の下でボブスレーが行なわれていた。

(トリノ五輪に続く)

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