戦争の時代に、ある日本の官僚は観光の力を信じていた…「観光こそ忘れるな」と語った理由
戦時下の日本で、「観光こそ忘れるな」と説いた、ある官僚がいた。いまでは見失われたその発想は、現代の日本に何を問いかけているのか--。
新刊『観光を忘れた日本』(6月18日発売)では、日本で起きている深刻な「観光離れ」という社会問題を、観光の歴史をひもとくことで考察していく。
※本記事は、山口誠著『観光を忘れた日本』より一部を抜粋・編集したものです。
「知るは愛するの始まり」
観光することの価値と想像力が、いつから、どうして、日本社会では忘れ去られていったのだろうか。そもそも、観光とは何か。
ここに、『観光読本』という本がある。
「とくほん」または「どくほん」とは、かつて国語科などの教科書を、やがて広く入門書や解説書を意味するようになった言葉であり、その書名には「観光の教科書」という意味が込められている。出版されたのは1940年、つまり昭和15年だった。
訪日する外国人も、海外へ渡航する日本人も、皆無ではないが途絶えつつある時局下に、なぜ「観光の教科書」が発刊されたのだろうか。
著者は井上万寿蔵(いのうえ ますぞう)という、40歳になったばかりの官僚だった。
井上は同書で「「知るは愛するの始まり」とは獨逸(ドイツ)の詩人ゲーテの言葉であるが、人と人との間に友情や愛が芽生える前には、かならず相知り合うという段階がなければならない」と述べ、このことは「人と人との間」だけでなく、国と国との関係でも同様であると、次のように記している。
永年イギリスにいてイギリスをよく知り尽くしている人はたいていイギリス贔負(びいき)であり、またアメリカ好きの人はおおむねアメリカ通(つう)であり、支那ぎらいの人は支那を知らぬ人であるのが普通である。
日中戦争の真っ只中であり、太平洋戦争の前夜に、英・米・中との友情や愛を説く書を、国家官僚が公刊するには相応の覚悟があったはずだが、井上は、さらに続ける。
観光事業はその地方なり、その国なりに観光客を呼びよせることにより、その地方事情やその国柄を十分に知らしめ、やがてそこに相互に親善の情を起させることになる。この効果こそ、さきにも述べたごとく観光事業のもっとも重要な、もっとも高い目的なのである。[中略]
この親善の効果は観光事業一般についていえることであるが、特に顕著であり、かつ重大なのは国際観光事業におけるものであって、これを国際親善と名づけることができる。
戦時下の日本で、あえて観光の価値を説き、その社会的な機能を論じたのが、1940年の『観光読本』だった。同書をはじめとする井上万寿蔵の著作には、いまも読み返せば気づきを与えてくれる思考が、いくつも記されている。
この後も井上は数多くの論考を発表しつつ、所属する鉄道省では課長職を務めるなど「観光官僚」としてキャリアを積んでいった。しかし大戦末期の1944年に公職を辞し、そして下野した。
観光とは何か
終戦後、井上は在野の「観光の専門家」に転身し、戦後日本の数々の観光施策に携わっていった。また東洋大学や立教大学や早稲田大学などで観光学を講義し、東京・万世橋(まんせいばし)にあった交通博物館(現・鉄道博物館)の館長などを歴任した。この他にも井上が日本の観光史に遺した足跡は多岐にわたるが、いまの大学などで使われる観光学のテキストでは、「観光を定義した人」として言及されることが多い。
その井上の定義によれば、観光とは「人が日常生活圏を離れ、再び戻る予定で、レクリエーションを求めて移動すること」という──まるで当たり前のことであり、戦時下に国際親善を説いた気鋭の観光論とは似つかわしくない、平凡な定義に見えるかもしれない。
しかし、(1)日常を離れ、(2)再び帰る予定で、(3)レクリエーションを求めて移動すること、という3つの要素から成るこの定義には、その源流から脈々と通底する観光の本質が見事に集約されている。そこにはかつて戦時下の井上が論じた国際親善も包括する、より根元的に観光することをめぐる価値が、簡潔ながら明確に言い表されている。
そのため、この観光の定義を十全に理解し、「観光とは何か」という問いを改めて探究することができれば、忘れられつつある観光の社会的機能を再発見し、それを21世紀の日本に再創造することができるかもしれない。そうして観光を忘れた現代の日本と向き合う試みは、観光の問題だけに限定されず、それを内包する日本社会そのものを考えることへつなげることができるだろう。
いったい、観光とは何か。なぜそれは旅や旅行とは別のものとして、近代社会に誕生したのか。それはいかなる価値と社会的機能を有するのか。そして、いつから、どのようにして日本では忘れ去られていったのだろうか。それは、なぜか。
これらの問いを探究するため、第一章ではより詳細な調査結果を検討し、現代日本における観光の実像を見たうえで、井上万寿蔵の著作と思考を導き手に、観光とは何かを考える道を歩み始めたい。
* * *
つづけて(「はじめに」前半)日本人の半数が「旅行したくない」…世界で進む観光ブームに逆行する日本の異変 を読む
