桐野夏生さん/『眠れぬおまえに遠くの夜を』/文藝春秋

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【著者インタビュー】桐野夏生さん/『眠れぬおまえに遠くの夜を』/文藝春秋/2200円

【本の内容】
「望郷」「成功」「転落」「喪失」の4章で語られる、ナダンというアイドルの、すさまじいまでの成功とその社会的死。彼の飛翔と墜落の物語を語るのは、アメリカ留学中に彼と知り合ったテミンという俳優で、ナダンが獲得したものをすべて失うのと対照的に、語り手であるテミンは、平凡ながら俳優としての地歩を少しずつ固めていく。ナダンはなぜ、あのようなスキャンダルに見舞われたのか。疎ましくすら思えた「人気」を失っていま、ナダンは何を思うのか。韓国の芸能界にくわしい人なら、何人かの顔がよぎるかもしれない、リアルな物語でもある。

対照的な人物の目を通すことで、光と影がよりくっきりする

 桐野夏生さんの新刊は、韓国芸能界に彗星のように現れたボーイズグループのメンバーの成功と凋落の軌跡を、アイドルになる以前から彼を知る男の目から描いた、異色の青春小説である。

 語り手であるパク・テミンは遅咲きの俳優で、映画やテレビドラマでキャリアを築きつつある。アメリカに留学中、コリアンタウンで出会ったのがナダンという少年だった。

 ナダンの一家はIMF危機(1997年のアジア通貨危機により韓国経済は破綻寸前に追い込まれた)下の韓国で経済的に行き詰まり、活路を求めて渡米してきたが、ビジネスはうまくいかずに両親は離婚、貧しいナダンは、アルバイトを掛け持ちしながら、歌謡コンテストに出演していた。

 韓国に戻ってボーイズグループの一員としてデビューしたナダンは華々しい成功を収めるが、プロダクションから独立、グループは分裂する。その後は俳優として成功しつつあったが、スキャンダルに見舞われる。テンカフェ(ルームサロンの高級版)の女性に性加害で訴えられたのだ。

「モデルにした人は複数いるんですけど、頂点から奈落へと転落した人が、なぜそういうことをしてしまったんだろうと興味を持ったのがきっかけですね。一度、転落した人をまったく救済しようとしない韓国社会の苛烈さも、執筆の背景にありました」

 日本では、何らかの犯罪容疑で逮捕されて表舞台から消えても、いつの間にか復帰していて、確かにここまでの厳しさはないかもしれない。韓国では、いったん烙印を押されると、芸能活動が一切できなくなることが当たり前らしい。取材で桐野さんが会った芸能記者は、「○○はテレビNG」などと個別に書かれた紙を持っていて、そういうリストが関係者に共有されているらしかった。

 韓国の大手プロダクションの社員や、アイドルをめざした人などにも取材を重ねたそうだ。

「元練習生で、デビューしたけどうまくいかなかったという子にも会いました。鬱病になって、ビールばかり飲んで太ったと言い、取材途中で泣き出す。そんなふうに辛そうな子もいれば、似たような境遇なのに、『今後はラッパーとして活動していきたい』と明るい口調で話す子にも会いました」

 この物語の主役であるナダンの声ではなく、少し離れた場所でナダンを見てきたテミンの視点で彼の人生を語らせたのはなぜだろう。

「ナダンの視点で書けば、転落の理由ももっとくわしく書けるかもしれないけれど、それはちょっと違うんじゃないかと思いました。ナダンのような才能はないけれど、豊かな家庭に育ち、ある意味、対照的なテミンの目を通すことで、ナダンの光と影がよりくっきりするのではないかと思いました。

 天才って、どうしてなのか、わからないじゃないですか。歌がうまい人って、たぶん本人も、なんで自分がうまく歌えるのか、わかってないと思うんですよね」

 ナダンの魅力と才能をいち早く見抜いたテミンは、貧しいナダンにCDをプレゼントし、彼が韓国でオーディションを受ける際には渡航費も貸した。ナダンがアイドルとして成功して以降は直接のやりとりもなくなり、その栄光も凋落も、すべては蜃気楼のように淡い輪郭で描かれる。

どこにも安住の場所がない、故郷喪失者の物語

 テミンは1984年生まれ、ナダンはその3歳下という設定で、1997年のIMF危機後の社会情勢や、徴兵制のことも描かれている。

「1990年代後半に10代だったという設定なので、彼らの青春に影を落としたであろうそのあたりの出来事は書かざるをえず、ずいぶん調べました。政治的な事件は、映画に描かれたりもしていますよね。面白い、なんて軽々しくは言えないけれど、日本とは異なる時間の流れを知るのは興味深いことでした」

 ナダンが転落するきっかけが、女性への性的暴力で訴えられた事件で、兵役中のスキャンダルだったことで、強いバッシングを受ける。

 長く続く、政治的な緊張の中で、韓国のエンターテインメント産業は国家事業と言われるまでに発展してきた。ナダンの栄光と転落は、そのダイナミックな流れの中の一瞬の出来事でもある。

「アメリカで過酷な少年時代を過ごし、韓国に戻りたくて、実際に戻って成功したのに、結局、韓国からも追われてしまう。どこにも安住の場所がないディアスポラ、故郷喪失者の物語ですね」

 本のタイトルは、少年時代にナダンが書いて、テミンに手紙で送った歌詞から取られている。ナダン自身の境遇をうたうこの詩は、小説の中で唯一、ナダンその人の内面がうかがえる箇所でもある。テミンは、ナダンの歌詞に触発されて、彼に断りなく映画の脚本を書きあげる。

 雑誌に連載中は数行の短さだった歌詞の部分を、本にするにあたって加筆・改稿したそうだ。

「詩なんて書けないと思っていたんですけど、詩人で芥川賞作家の井戸川射子さんにお会いする機会があったんです。井戸川さんが詩を書くきっかけというのが、学校で子どもたちに詩を教えるのに、とりあえず自分で書いて『現代詩手帖』に送ってみた、と軽やかに言われるので、自由でいいなあと思って、それを踏まえて書いてみたら、楽しくなって、どんどん書いてしまいました」

【プロフィール】
桐野夏生(きりの・なつお)/1951年石川県金沢市生まれ。1993年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。1998年『OUT』で日本推理作家協会賞、1999年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、2004年『残虐記』で柴田錬三郎賞、2005年『魂萌え!』で婦人公論文芸賞、2008年『東京島』で谷崎潤一郎賞、2009年『女神記』で紫式部文学賞、『ナニカアル』で2010年、2011年に島清恋愛文学賞と読売文学賞の2賞、2023年に『燕は戻ってこない』で毎日芸術賞と吉川英治文学賞の2賞を受賞。2015年紫綬褒章受章。2021年に早稲田大学坪内逍遙大賞、2024年に日本芸術院賞を受賞。現在、日本ペンクラブ会長を務めている。

取材・構成/佐久間文子

※女性セブン2026年6月18日号