親の反対を押し切り「さずかり婚」をした結果、相続の権利をはく奪されて…住友財閥15代当主の長男が辿った“あまりにも残酷な運命”
〈「結婚できなきゃ生きていけない」三菱財閥の御曹司が“とある絶世の美女”に貢いだ規格外の結婚費用の内情《十数億円という試算も…》〉から続く
江戸時代から続く大坂の富商をルーツに持つ住友財閥。その歴史は、強大な権力を持った「番頭(専門経営者)」たちによる徹底したコントロールの歴史でもあった。
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1890年、住友家の当主と跡取りが相次いで病死すると、実権を握ろうとした母親を番頭たちが幽閉。代わりに、五摂家に次ぐ公家の名門・徳大寺家から養子を迎え、15代当主(住友吉左衛門友純)に据えるという荒業に出たのだ。
事業には一切口出しせず「君臨すれど統治せず」を貫いた15代当主だったが、その長男は親の反対を押し切って“さずかり婚”をしたことで、無情にも廃嫡されてしまう……。ここでは、菊地浩之の著書『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』(角川新書)の一部を抜粋。華麗なる一族の裏でうごめく番頭政治と愛憎劇を紹介する。

住友ビル本館(大阪市中央区) ©AFLO
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大坂一の富商
住友財閥は、江戸時代から続く大坂の富商・住友家(屋号は泉屋)を淵源とする。
「住友」という変わった苗字は、平家の子孫を称する須見平内友定の子・小太郎忠重が、父の姓名を併せて「住友」を名乗ったというが、定かではない。ややこしいことに忠重の子孫は入江を名乗り、入江土佐守信定、入江若狭守政俊父子は織田家の武将・柴田勝家に仕え、越前丸岡(福井県坂井市)に城を構えたが、1583年(天正11)の賤ヶ岳の合戦に敗れ、勝家に殉死したという。
政俊の孫・住友小次郎政友(1585〜1652)は京都に落ちのび、住友姓に復して町人となり、富士屋という薬舗・出版業を営む店を開いた。政友の姉婿・蘇我理右衛門(1572〜1636)は銅商で、南蛮(外国)人の白水から「南蛮吹き」という粗銅から銅と金銀を選り分ける技術を教えられ、巨利を得た。理右衛門は白水への感謝を後世に伝えるため、白水の二字を合わせて「泉屋」を屋号とした。
この蘇我理右衛門の子・住友(泉屋)理兵衛友以が、住友政友の婿養子となり、住友家の家督を継いだ。なお、住友家では、家系上の「家祖」住友政友と区別して、事業上の祖である蘇我理右衛門を「業祖」と呼んでいる。
二代目・泉屋理兵衛友以は京都から大坂に移り、以後、住友家は大坂を本拠地として、銅精錬と銅貿易商を行うようになった。三代目・泉屋吉左衛門友信の代に至って、各地(秋田、山形、岡山)で銅山を経営し、両替商をはじめた(友信以降、当主は吉左衛門を襲名した)。四代目・泉屋吉左衛門友芳は伊予(愛媛県)に別子銅山を発見し、1691年(元禄4年)に開坑に及んだ。別子銅山は国内最大規模の産銅額を誇り、住友家の発展に大きく寄与した。豊かな資金力を背景に江戸に店を構え、両替商を拡大した。こうして住友家は三井家・鴻池家と並んで江戸時代に「三大豪福」と呼ばれるようになった。
15代・住友吉左衛門友純:公家・徳大寺家の御曹司
1890年11月26日に12代・住友吉左衛門友親(1843〜1890)が腸チフスで死去(享年48)。同年11月30日には友親の子で13代・住友吉左衛門友忠(1872〜1890)が病死してしまう(享年19)。友親には1男2女しかなく、友忠は未婚だったので、急遽、友忠の母・登久を暫定的に14代当主に立てた。
ところが、登久が経営に介入し出すと、住友家の番頭(広瀬宰平・伊庭貞剛等)は登久を幽閉してしまう。そして、1892年に公家の徳大寺隆麿を登久の娘と結婚させ、翌1893年に15代目当主とした。住友吉左衛門友純(1865〜1926)である。
なぜ徳大寺だったのか
徳大寺家は公家の中でも五摂家(摂政・関白に任じられる五つの家柄)に次ぐ高貴な家柄(清華大臣家)である。父・徳大寺公純(1821〜1883)は江戸時代に右大臣を務め、兄・徳大寺実則(1840〜1919)は1871年に侍従長、1884年に侯爵に列し、1891年に内大臣、1911年に長年の勲功によって公爵に陞爵した。次兄の侯爵・西園寺公望(のち公爵、総理大臣。1849〜1940)は大臣候補の有力政治家だった。
15代・友純の養子縁組は、広瀬宰平・伊庭貞剛ら住友財閥首脳が、住友家の家格上昇を狙ってのものであることはほぼ疑いがない。ではなぜ、徳大寺家だったのか。そして、徳大寺家側にはいかなる事情があったのだろうか。
しかし、友純の伝記『住友春翠』ですら「徳大寺隆麿の住友家に入るに至つた事情、経緯には、既に不分明のことが多い」と記し、いかなる経緯があったのかは不明である。
ただし、誰が介在したのかは以下の証言がある。「隆麿の住友入家の談が何時誰から起つたかは審かでないが、(中略)宮内省属官日高秩父が早くこの問題に関与したのを察することが出来る。次いで、媒妁に立つたのは岩佐純であつた。(中略)〔侍医の〕岩佐が宮内卿であり侍従長であつた徳大寺実則の家に親昵したことはいふまでもない」(『住友春翠』)。時代的には順序が前後するが、岩佐純は三菱財閥の岩崎家と姻戚関係がある(岩佐純の嫡男・岩佐新の義兄・本野英吉郎の義弟が岩崎弥太郎の子・岩崎康弥)。岩佐自身も医療関係者として財閥家族との付き合いがあり、その実態についても知悉していた可能性がある。
君臨すれど統治せず
家督を継いだ住友吉左衛門友純は、住友家の家業には全く興味を示さなかった。事業を全て専門経営者に委ね、社交パーティに顔を出すくらいしか関与しなかった。それは徹底した「番頭政治」を家風とする住友財閥首脳の望むところであり、友純はあえて経営に口を出すことを控えていたともいう。
三井財閥の例に見るまでもなく、専門経営者が財閥家族の放縦に手を焼くことが少なくない。そのためもあって、却って住友財閥首脳は住友家に大いなる敬意を以て遇した。「住友本社の特色はいわゆる家長尊重の気風がすこぶる厚く、住友家の当主吉左衛門に対する総理事以下幹部ならびに社員の気持は封建的といっていい位の鄭重さ、庇護、親愛の情を含まされていた。これを三井、三菱のそれらと比較して東洋経済新報社の記者は社員の家族(財閥当主)に対する気持を『住友の場合は「敬愛」、三菱の場合は「畏服」、三井の場合は「扈従」』と呼んでいた」(『日本財閥とその解体』)。
そして、終戦時にその伝統がいかんなく発揮された。総理事・古田俊之助以下、専門経営者たちが考えたのは「いかにしたら、後生の物笑いにならないように、住友家の安泰を守れるか。極力、住友に累が及ばぬようにするか」ということだったという。
友純の息子たち:さずかり婚で廃嫡
友純には3男1女がある。長男の住友寛一以外はすべて華族の子女と婚姻を結んでおり、住友家の婚姻戦略が家格上昇とその維持を意識しているものだとわかる。
住友寛一夫人は分家・住友保丸の養女とあるが、実際は庶民の女性で、1920年に親の反対を押し切って結婚し、(表向きは健康上の理由で)廃嫡されたという。そのため、次男の厚が家督を継ぎ、16代・住友吉左衛門友成となった(友純の子女を列記すると、長男と次男の年齢差が13歳あり、かなり不自然だと感じる)。
・長女・住友孝(1893〜1985)の夫、住友忠輝(1889〜1923)は下野壬生藩主の子孫で子爵の鳥居忠文の三男。学習院高等科を経て1914年に東北帝国大学農科大学特産学科の卒業と同時に結婚した。
忠輝の実家の鳥居家は、1877年時点ですでに負債を抱えた旧大名家の一つであり、長兄・鳥居忠一は三井高弘の次女と結婚している。持参金目当ての結婚だろう。それに味を占めて、忠輝を婿養子に出したと思われる。
・長男・住友寛一(1896〜1956)は学習院中等科から暁星中学校に転じ、1915年5月から1年間米国に遊学。帰朝の3ヶ月後の1916年8月に長女が誕生、1920年7月に結婚した(今風にいうなら、さずかり婚である)。姉・孝もドイツ遊学の経験があるのに対し、二人の弟に留学経験が無いのは、寛一の結婚・廃嫡の一因を欧米遊学と考えたからだろう。夫人は住友保丸の養女。
・次男・住友吉左衛門友成(旧名・厚。1909〜1993)。夫人は西園寺公望の孫・春子。
・三男・住友元夫(1912〜2005)は学習院高等科を経て1936年に京都帝国大学物理学科を卒業、1946年に住友金属工業(現・日本製鉄)に入社した。製鋼所技術部長、研究部長、中央技術研究所副所長などを経て、1962年取締役中央技術研究所長に就任。1965年に常務、1970年に専務となった。1972年に住友金属工業相談役に退くとともに、子会社の住友精密工業会長に就任。1981年に住友金属工業および住友精密工業の監査役にそれぞれ着任。1989年に住友金属工業顧問となった。
なお、1953年に「軽合金の復元現象」により工学博士を授与され、1957年に大河内記念賞、1968年に科学技術功労者表彰を受け、1974年には藍綬褒章を受章している(便宜上、ここで記したが、経歴を見る通り、戦後の人物である)。夫人は若狭小浜藩主の子孫で伯爵の酒井忠克の四女・寿枝子である。忠克には2男4女があり、長女こそ公家華族の西四辻家に嫁いだものの、あと三人の娘はみな金持ち目当ての結婚と思われる。次女の夫は岩崎弥太郎の孫で、四女は住友吉左衛門の末男。三女の夫は讃岐高松藩主の子孫・松平頼明なのだが、頼明の父・松平頼寿は大名華族の中でも五指に入る富豪なのだ。
(菊地 浩之/Webオリジナル(外部転載))
