賀陽邦寿氏

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【写真】礼服の着こなしはさすがのもの…賀陽邦寿氏、最初の結婚写真

方向転換を余儀なくされた人生

第1回【「殿下」と呼ばれていたのに…86年に台湾で客死した「異端の元皇族」 京大卒「賀陽家の長男」の人生を変えた「臣籍降下」の衝撃】を読む

 1986年4月16日、台湾・台北で“異端の元皇族”と呼ばれた日本人男性が急死した。賀陽宮(かやのみや)家の三代目当主・賀陽邦寿(くになが)氏、享年63。名刺に「母 敏子・天皇の従妹、父 恒憲・皇后の従兄、皇太子とはまた従兄」と書かれていた通り、世が世なら大変なお方である。だが、昭和22年に25歳で臣籍降下(皇籍離脱)。“庶民”となったこの頃から、その人生は大きな方向転換を余儀なくされた。

賀陽邦寿氏

 実弟の宗憲氏はかつて「週刊新潮」に対し、皇族と庶民の生活にある「ギャップを埋めることも難しかったろうと思いますね」と臣籍降下後の邦寿氏を振り返った。第2回では3度の結婚、新聞沙汰になったトラブルなど、臣籍降下後の激動人生を伝える。

(全2回の第2回:以下「週刊新潮」1986年5月1日号「宸襟(しんきん)を悩まし続けた元皇族『賀陽邦寿』の死」を再編集しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時のものです)

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次は料亭の娘に夢中

 恋に落ちた相手はYという名の舞妓だった。

「ええ、賀陽はんはよく『万イト』さん(祇園のお茶屋)にいらしてましたなあ。お酒をたくさん召し上がる人でした。Yさんは舞妓でしたが、当時50人ほどいた祇園の中でも特別に綺麗な人でしたねえ。売れっ妓でしたよ」

 と、祇園の元芸妓も当時のことを覚えている。

「賀陽はんと一緒に東京に行かはって、賀陽はんにはちゃんとしてもらってると聞いてましたが……」

 両親に結婚を反対されたが、邦寿氏は彼女を東京に住まわせて、恋をつらぬこうとしたのだ。が、その最愛の女が結核で床に臥すと、今度は深川の料亭の娘に夢中になった。皇室評論家の河原敏明氏は言う。

「この人もファッションモデルをやっていたような大変な美人で、この女性を巡って、久邇朝融(くに・あさあきら)氏と取り合いをするほどだったのです」

政略結婚は3年で破綻

 そうこうするうちに実際に結婚した相手は、青梅の大地主で当時代議士だった津雲国利氏の娘だった。

「しかし、これは完全な政略結婚、親に押しつけられた結婚だったためか、邦寿さんは妻に指一本触れようとしなかった」(河原氏)

 この女性とは3年で離婚。以後の邦寿氏は関西に移り住んで、さらに二度結婚をするのだが、その結婚生活もまた奇妙なものだった。

 かなりの事情通でも結婚相手の素姓を知らない、という邦寿氏の秘密主義もさることながら、昭和48(1973)年に入籍した3人目の妻を大阪市内の実家に置いたまま、月に2、3度食事に寄る程度の、ほとんど別居結婚のような妙な関係を維持していたのである。

 そして、その最後の妻とも、数年前に離婚してしまった。結核で死んだYさんへの思慕がよほど強かったのか、それ以後の邦寿氏の女性への対し方は、どうも尋常ではないのだ。

「金銭感覚がまったくないんだねえ」

 だが、そんな私生活の突飛さとは別に、邦寿氏は世間の耳目をそばだてるような騒動を何度となく起こしてきた。最初は、昭和43(1968)年の参院選出馬だ。

「『やめた方がいいんじゃない』というたんだが、『いや、絶対通る、賀陽の名は全国に通っているから』と言い張るんですわ。しかし、見事に落ちましたな」

 と言うのは、邦寿氏とは30年来の友人だったという吉本土地建物の吉本晴彦社長。

「東京の方に土地もかなり持っていたのに、あの選挙でかなり売ったようです。金銭感覚がまったくないんだねえ」

 旧皇族の名前を利用しようとしたとしても、特に他人に迷惑をかけたわけではないが、次に邦寿氏の名前が新聞に登場したときは、もっと不名誉な形だった。

〈名誉売る民間勲位〉

 と、昭和51(1976)年の読売新聞にデカデカと書かれた事件。功一等から五等までの勲位を勝手に作って、出した金額に応じてそれを差し上げましょうというインチキ商売の会長に、邦寿氏が納まっていたのだ。翌年には、それと同工異曲の経営褒華賞なるものを作り、また物議をかもしている。

名前を聞いて泣き寝入りも

 そして最近では、昭和59(1984)年、伊豆のホテルの宿泊代を踏み倒して裁判に負けた事件が、新聞の記事になった。

「全国賀陽会という会が、大阪方面からバスで皇居の参拝に来るツアーがあるのですが、最初はキチンと宿泊代を払ってくれたけど、途中から全然払わなくなったんです」

 というのは、被害に遭ったホテルの支配人。

「それも、うちだけじゃないんですよ。乗ってきたバスも、石和温泉や熱海のホテルも、みんな踏み倒されてるんですが、みなさん、賀陽さんの名前を聞いて泣き寝入りしたようなんです。それで、ウチだけが訴えたのですが、それが新聞記事になったら、向こうも格好悪くなったのでしょう。すぐに404万円を払ってくれたのです」

 邦寿氏本人が意図的に仕掛けた悪事ではないにしても、無銭飲食の片棒をかついだことには違いない。旧皇族の名がある故に。

一発当てようとする連中に取り込まれた

「邦寿氏は若い頃から肩書きだけで生活してきた人ですからね。元皇族の顔を利用して、様々な企業や団体の顧問や理事などになり、それだけで食ってきた人なんです」

 と、事情通が故人の一生を総括する。

「若い頃からそうやって生活する味を覚えてしまったことが、彼の人生を大きく狂わせてしまった原因でしょう。その後は、少しでも収入を多くしようと、なんでもかんでも引き受けるようになり、彼を利用して一発当てようとする連中に取り込まれることになってしまったのですよ」

 そんな危なっかしい人生を歩んだ人の死だった。

他の元皇族と扱いは同一

「本人は関西に住んでいましたが、葬儀などは東京の豊島岡葬祭場で行います。そこが宮内庁の管轄で、しかも元皇族で長男ということなので、一応、宮内庁の方で取りまとめて下さるそうです」

 と、弟の宗憲氏が言えば、宮内庁の関係者も、

「賀陽さんは両陛下に連なる御親戚に当たる元皇族ですから、宮内庁も何がしかのお手伝いをします。すでに天皇、皇后両陛下のお名前で花を贈られましたが、お通夜には、御榊が贈られます。そして葬儀には、両陛下の名代として、侍従が参列します。いや、賀陽さんも女性のこととかで色々ありましたけど、だからといって、他の元皇族の方と扱いが別になるなどということはありません」

 と言うのだが、天皇家は本心で「ホッとしているのでは」と見る向きもある。先の河原氏がいう。

「陛下は天皇家の生活態度にものすごく厳しい方なんです。何か問題が起きると、激しい口調で侍従などに怒鳴られるそうです。邦寿氏の行状など、とうてい我慢できなかったでしょうね」

 皇室に詳しい別の事情通によれば、宮内庁が悩まされ続けた旧宮家は東久邇家と賀陽家だったという。ところが、東久邇家はもう力がなくなり、今度は賀陽さんが亡くなった。安堵しているという見方が出るのも無理はないようである。

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「殿下」と呼ばれていたのが、その日から「賀陽くん」――。第1回【「殿下」と呼ばれていたのに…86年に台湾で客死した「異端の元皇族」 京大卒「賀陽家の長男」の人生を変えた「臣籍降下」の衝撃】では、邦寿氏の実弟・宗憲氏が臣籍降下に際した心情を明かしている。

デイリー新潮編集部