今西和男さん

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は4月16日に亡くなった今西和男さんを取り上げる。

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森保監督に受け継がれた姿勢

 今西和男さんは日本サッカー界の名伯楽だ。日本代表の森保一監督を筆頭に、今西さんが見いだして育てた選手の多くが、指導者としても実績を残している。

 森保監督は日本サッカー協会を通じて「社会人として人前に出て恥ずかしくないように、人として根本的なことを教わりました」などと恩師をしのんだ。

 1941年、広島市生まれ。爆心地から約2キロの自宅で被爆し、左脚にケロイドが残った。高校からサッカーを始め、東京教育大学(現・筑波大学)でもレギュラーとして活躍。故郷の東洋工業(現・マツダ)に入社して選手を続け、65年、日本サッカーリーグが発足すると、同社の4連覇に貢献。日本代表にも選ばれたが69年に28歳で引退する。

今西和男さん

 社の業務に専念し、総勢7500人もいる独身向けの寮の運営を任された。

 今西さんを長く取材してきたスポーツジャーナリストの二宮清純さんは言う。

「上から押さえつける管理の発想をまず捨てた。寮の若者が相手の話をよく聞き、自分の考えを持ち、意見が述べられる社会人として成長することが大切だと、公平を重んじ彼らに寄り添って信頼関係を築いた。この経験が後に若いサッカー選手と向き合う際に生きたと話していました。森保監督にもその姿勢が受け継がれていると感じます」

無名の選手

 一方、マツダは日本リーグで低迷。再建を請われ、84年、監督を引き受けた。

「十分な予算はなく名の売れた選手が採れないならチーム全体の組織力で勝つしかない。それには海外の優秀な指導者が絶対必要で、選手は原石を発掘し育成することになった」(二宮さん)

 後に日本代表監督を務めることになるハンス・オフトさんをコーチに招き指導を一任。今西さんは選手獲得と社会人教育を担った。

「メモ魔で問題解決にすぐ取りかかる。今西さん自身に魅力があって人脈が広い。それがスカウト網になっていたのです」(二宮さん)

 森保監督は長崎日大高校時代は無名の選手だった。同校のサッカー部監督が今西さんに宛てた年賀状が長崎視察のきっかけとなる。

 技術や身体能力には長けていないが、頭を上げて動き視野が広い。サッカーにひたむきで、素直、人の目をしっかり見て話を聞く集中力がある、と今西さんは評価した。87年マツダに入団、読みどおり見事に開花。

サッカーと経営の両面

 93年、Jリーグが開幕し、今西さんはマツダを母体とする広島の総監督として翌年第1ステージを制覇。貧乏なチームが工夫で勝利したと驚かれ、称賛された。

 スポーツライターの加部究さんは振り返る。

「サッカーと経営の両面が分かっていました。チーム強化の全体を見渡してきたゼネラルマネージャーの先駆者でした。長期展望で育成型のチームづくりが実った。取材にも快く応じて下さり、自慢話などはしなかった」

 森保監督以外にも高木琢也、風間八宏らプロ監督になる人材が続々と輩出した。

 Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎さんも言う。

「彼が日本サッカー界に与えた影響は絶大なものがあります。その一つを挙げるとしたら、人間性を鋭く見抜く目です。(日本代表の)岡田武史監督就任を進言してくれたのも彼でした」

 先の二宮さんも言う。

「生きる道を示してくれたサッカーに救われた。正しいことなら直言したいと語っていました。90年代半ば、今西さんをJリーグチェアマンに推す声もありました。固辞の理由を直接聞くと自分は毛利元就でいい、と答えた。Jリーグの地域密着の理念を大切にした人です」

 2003年、広島の総監督を辞し、07年に顧問を退任する。教え子の成長を楽しみにした。

 4月16日、85歳で逝去。

「亡くなった後、森保監督と会う機会がありました。今西さんを“広島の父”と呼び、尊敬の気持ちを忘れていなかった」(二宮さん)

「週刊新潮」2026年4月30日号 掲載