「1試合で4000万円のギャラ」「拳による打撃アリ」…日本人初の「セネガル相撲選手」が語る「熱狂の格闘技」とは

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セネガルの国民的スポーツ「セネガル相撲」

「筋肉海岸」。

アフリカ最西端の国・セネガルの首都ダカール近郊に広がる海岸線には、こんな異名がある。

この筋肉海岸の砂浜では、ときに筋骨隆々の男たちがかけずり回り、ときにレスリング選手のような組合いに興じ、鍛錬に励んでいる。そんな風景を見て、いつしかそう呼ばれるようになったという。

男たちが心血を注ぐ競技の名は「ランプ(格闘技などの意)」。セネガルの共通語の一つであるウォロフ語の言葉だ。

戦いは砂上で行われる。組技や足技、ときに打撃などを駆使し、相手を地面に倒した方が勝者だ。試合のスタイルから日本では「セネガル相撲」などとも呼ばれる。

歴史は古い。諸説あるが14世紀ごろ、当時のセネガル中西部にいた部族・セレール族の屈強な肉体の男たちが訓練のために行っていたものが起源だと言われている。その後は、収穫期の終わりなどに戦士たちが祈り、取り組みを行う伝統的な儀礼として発展した。

19世紀以降のフランス植民地時代からは競技化も進んだ。契機は1927年、フランス人プロデューサー・モーリスジャクラン(Maurice Jacquin)が殴りありのルールを加えた試合を有料のショーにしたこととされる。

'60年のセネガル独立以後、セネガル相撲委員会が設立され、「殴りあり」「殴りなし」のセネガル相撲それぞれで、さらなる競技化が進んだ。特に打撃ありのルールのセネガル相撲はテレビ網の普及に伴い国民的スポーツとしての地位を確立。伝統的な組と足技 主体のセネガル相撲とは一線を画すことになる。

日本人唯一の「セネガル相撲」プロ選手

'90年代には、ムエタイの影響を受けて「素手での打撃」が導入された「ランプアフリカイン」と呼ばれるスタイルが生まれ、人気を不動のものとしていった。

'18年には首都ダカールに2万人が収容できるセネガル相撲専用のスタジアム「アレーヌ・ナシオナル・ド・リュット」が完成、年に1度開催される最大規模の大会「ナショナル・チャンピオンシップ」の模様はセネガルの主要メディアで報じられる他、BBCやNYTimesなど海外大手メディアも注視する。

日本の角界には故・二子山親方(初代横綱・若乃花)が弟子たちに語った「土俵にはカネが埋まっている」という格言があるが、セネガル相撲の選手たちの血と汗が染みこんだ砂のなかにも、莫大な“カネ”が埋まっている。

セネガルの平均年収は日本円で30万円に及ばない程度。他方でセネガル相撲の選手たちは、ナショナル・チャンピオンシップの王者のようなトップ層ともなれば1試合で日本円にして4000万円は稼ぐと言われる。

一夜にして富と名声を手にできるセネガル相撲界。実は日本の角界のように、いまだ容易に踏み込めぬ「タブー」がある。

「近年は是正されてきていますが過去には試合の選手登録に“影武者”を送りこんでいて、実際の試合には別人が出ていたこともあったそうです」

そう語るのは、日本人では初めてセネガル相撲のプロ選手として活躍している魚住彰吾(32歳)さんだ。首都ダカール近郊の漁師町ヨフでセネガルの人たちに交じりながら、一人暮らす。

「ヨフは海風のおかげか1年中涼しく、過ごしやすい街です。今の暮らしですか? トレーニング中心ですね」

日本から約1万4000キロも離れたセネガルでなぜ……。魚住さんに話を聞いた。

元々はレスリング選手だった

魚住さんとセネガル相撲との出会いを語るには時計の針を少し後ろに戻す必要がある。

魚住さんは'93年11月に兵庫県で生まれた。

育ったのは、いわゆる柔道一家だった。父は元実業団選手、母は黒帯、兄も姉も柔道を習っており、魚住さんも物心つく前から道場に通った。

幼少期の魚住さんが研鑽を積んだのが東京五輪金メダリストの阿部一二三阿部詩兄妹が幼少期に学んだことでも知られる名門兵庫少年こだま会だった。小学校5年生になり、共にこだま会に通う友人から勧められレスリングにも取り組むようになる。

中学卒業後はレスリングに完全に転向。グレコローマンでリオデジャネイロ五輪代表選手となった井上智裕らを輩出した、育英高校(兵庫)に進学すると頭角を現す。

'11年全国高校生グレコローマン選手権66キロ級準優勝の成績をひっさげ、魚住さんは特待生のような形で専修大学経済学部経済学科に進学した。

大学レスリング界でも躍進は続いた。

全日本大学グレコローマンレスリング選手権での準優勝を皮切りに国際大会でも入賞し、ジュニアナショナルチームのメンバーにも選出される。

将来を嘱望されたはずだ。

だが、当の魚住さんは、オリンピックを目指す気はなく、大学卒業後はきっぱりと競技選手はやめると決めていた。

柔道もレスリングも決して好きやっていたわけではなかった」と、当時を振り返る。

魚住さんの父の指導は体罰も辞さないスパルタだった。レスリングに専念することになったのも、苛烈だった父の指導が影響している。

中学時代、魚住さんは地元・神戸市立垂水中学柔道部に所属していた。中学生最後の大会でのことだった。

柔道一家、魚住家の至上命令があった。県大会での優勝である。

途上国のレスリング普及にチャレンジ

兄も姉ももちろん優勝していた。負けられなかった。父からは「県ぐらい取れないなら柔道をやめろ」とも言われていた。

しかし、優勝はかなわず、敗れてしまう。自宅に戻ると正座をした父と兄が待っていた。「柔道をやめろ」と迫られた。

「やめません」と魚住さんは応じない。そんな魚住さんに父らは「やめろ」とさらに迫り、ついには手をあげた。

それでも魚住さんがかたくなだったのは、柔道への情熱からではなかった。安易に同意すれば、火に油を注ぐようなことになるかもしれない。そんな恐れがあった。

そうした流れのなかで魚住さんは結局、柔道を離れ大学を卒業するまでレスリングに専念することになる。

だが、大学まで競技生活を続けたのは、情熱が主な原動力だったからではない。レスリングを続けていれば推薦と奨学金が得られる。進学のための現実的な選択だった。

とはいえ、魚住さんが血道をあげて積み上げてきたもの、そして実力は本物だ。大学卒業後は畑違いの不動産業界への就職を考えていた魚住さんをコーチが引き留めた。

「不動産の世界にはいつでも行ける。もう少し視野を広げてみろ」

勧められたのはJICA青年海外協力隊。途上国でのレスリング普及が魚住さんの次の目標になった。

いくつかあった派遣候補国のうち、魚住さんの第一志望はペルーだったが、すでに定員が埋まっていた。東南アジアの候補地はベトナムだった。同じ東南アジアのタイには渡航経験があったが、食事が合わない。

残るはアフリカである。候補地の一つ南スーダンは、魚住さんが青年海外協力隊入りを考えていた'16年、タイミング悪く政府軍と反政府勢力の戦闘が激化し内戦状態にあった。残ったのがセネガルだった。当時の魚住さんとセネガルの間には何も接点はなかった。言わば消去法で選んだ。

行政機関との間で生じた「不和」

'17年1月、2年の任期で魚住さんはセネガルに降り立った。派遣されたのは首都ダカール隣県・ティエスにあるスポーツ指導者の育成機関・国立国民スポーツ教育大学。当初の目的は大学生へのレスリング授業の実施や指導のサポート、ひいてはレスリングの普及だった。

だが、現地ですぐに問題に直面する。セネガル国内のレスリング人口は100人足らず、子どもにいたってはほぼゼロ。競技人口があまりにも少なかった。

大学で教えているだけでは、レスリングの普及は到底かなわない。

それでもめげず魚住さんは0から1を作り上げる活動に取り組み、セネガル初となる実績をいくつも達成した。まず、セネガル国内に子ども向けのレスリング教室を開設し、ほとんどいなかった若年層の競技人口を創出した。

派遣から8ヵ月ほどたってからは、これまたセネガル初となる少年少女の公式レスリング大会開催に動き出す。

魚住さんはセネガル相撲協会や国・州・県にまたがる各行政機関に協力を呼び掛けた。しかし、なかなか話がまとまらない。主導権争いや運営法・体制を巡る意見の相違から行政機関の間で不和も生じた。

大会開催は2度とん挫し、魚住さんの任期内での実現が危ぶまれる瞬間もあったという。だが魚住さんはめげなかった。各地に直接足を運び、不満を口にする行政機関の長たちに話を聞き、ときに間を取り持った。合間を縫って、テレビやラジオにも出演し、レスリングの魅力を伝え、実現のために奔走した。

魚住さんが異国で踏ん張れた背景には、頼もしい仲間の存在があった。セネガル相撲の選手で数少ないセネガル人レスリング競技者の一人でもあるシェール・バッジャンさん(33歳)である。当時、競技経験は6年ほどで国際試合の出場経験はなし。だが、人一倍情熱があった。

カメラ撮影を嫌がるセネガル人

スパーリングを通して二人は意気投合。言葉はおぼつかず、右も左もわからなかった魚住さんを1歳年上のバッジャンさんが支えた。

少年少女レスリング大会開催の構想が立ち上がり、気づけば9ヵ月ほどが経っていた。ついに大会は実現した。ほとんどいなかった若年層のレスリング人口も気づけば50人に増え、国をあげてレスリングに挑戦する子どもたちを支援する土台もできた。

そうして魚住さんの青年海外協力隊の任期満了の日がやって来た。まだまだやりたいことはあった。バッジャンさんに「いずれ戻る」と約束し、帰国した。

しかし、思いはなかなかかなわなった。

魚住さんが帰国してしばらくたった'19年12月、中国・河北省武漢で原因不明の肺炎が報告される。後にそれは「新型コロナウイルス感染症」と特定された。

世界中で感染拡大が進み、'20年3月11日にはWHOが「パンデミック」を宣言。各国でロックダウンが行われ、渡航も制限されるようになる。

魚住さんも雌伏の時期を過ごした。

事務職として働きながら、いつかセネガルに戻る日のため資金を貯めた。そして'22年、徐々に各国でビザ発給や入国制限の緩和が進んだのに合わせて、魚住さんはセネガルに本格的に移住を果たす。

だが、前と同じようにレスリング教室運営やメディア出演するだけではレスリング普及は遅々として進まない。資金も底をつこうとしていた。

そこで魚住さんが思い立ったのが、YouTubeやTikTokなどのSNSを使った活動だった。青年海外協力隊で派遣されたときに一時ホームステイしたセレール族のティネ(Tine)家の姓、ホストファザーから名付けられた「Songo(ソンゴ)」の名前を取りSongo TINEと名乗るようになる。

余談だが、Songoは魚住さんの名前・彰吾(しょうご)が由来ではない。ウォロフ語で「攻撃する」といった意味を持つ言葉Songoから取られたそうだ。

「近年は友人に手伝ってもらうこともあるのですが、活動を開始してしばらくは動画撮影から編集まで全て私が担当していました。最初は大変でしたね。セネガルの人はカメラで撮られることが得意ではないようで、基本は嫌がられる。『何やってんだ!』と怒られることもよくありました」

だが、約1万4000キロ離れた異国からやって来た青年Songoがセネガルの国民的スポーツであるセネガル相撲に興じ、現地社会に溶け込もうとする姿はすぐに耳目を集めるようになる。

後編記事『【最強の格闘技】セネガル相撲のプロ日本人選手が激白!「勝って有名になりたい」…想像を絶する「過酷すぎる環境」』へ続く。

【つづきを読む】【最強の格闘技】セネガル相撲のプロ日本人選手が激白!「勝って有名になりたい」…想像を絶する「過酷すぎる環境」