幹部の命も簡単に奪う…山口組ナンバー2・盪垣胸覆砲茲覿欧蹐靴ぁ廟貔支配”の実態

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かつて20万人もの構成員を擁した暴力団。 

覚せい剤の輸入や賭博、みかじめ料の徴収で莫大な収益を上げ、1980年代の年間収入は推計8兆円に達したと言われる。だが平成に入って以降、暴対法の制定や警察の行き過ぎた捜査、メディアによる批判的な報道が原因となり、暴力団は衰退の一途をたどってきた。

では、暴力団が社会から消えていくことは、我々一般国民にとって「良いこと」だけなのだろうか?しばし「必要悪」として語られてきた“やくざ”の実態を、『やくざは本当に「必要悪」だったのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

【前編を読む】指定暴力団・山口組の構成員の生活はまるで昭和の“サラリーマン”…金も時間も組に捧げるヤクザたちの現状

直参の先輩への「カマシ」で組を支配

郄山は1989年、弘道会の若頭に就いて16年後、2005年3月に司忍の後を継ぎ、弘道会の2代目会長に就任した。これは当時の山口組組長・渡辺芳則を追い落とし、司が山口組6代目組長に就くための事前の手順だった。郄山はこれにより5代目山口組の直参になり、同年7月、弘道会のクーデターが成功し、司忍が6代目山口組組長を襲名すると、それまで司が占めていた山口組若頭の座に上った。

つまり郄山は山口組の直参になってわずか4ヵ月後、若頭に就いた。周りは郄山より山口組では先輩の直参ばかりである。そういう中で郄山は直参のトップ(長男)というべき若頭になり、立場上、直参たちに下知しなければならなくなった。

このとき郄山が執った術策は直参たちに対する融和策ではなく、カマシであり、先制攻撃と専制支配だった。

当時、山口組の直参は123人いた。全員が郄山より山口組においては先輩である。そういう彼らが新米ほやほやの郄山にカマシを入れられる、我慢ならないことだったにちがいない。

元公安調査庁調査第2部長だった菅沼光弘はこのころ郄山清司に会い、情報交換したが、郄山は菅沼に、

「山口組の直参といったところで、どいつもこいつもたいしたタマじゃない。わしが大声出してカマシ入れたら、しゅんとなって直立不動、何も言えん」

と笑ったという。

脅しから殺人にまで発展

郄山のカマシはただ単に脅しの効果だけでなく、現実にたとえば山健組幹部たちの命を奪うことになった。

後藤一男は山健組の舎弟頭で、名古屋に本拠を置く多三郎一家総長だった。名古屋といえば弘道会が本部を置く土地である。そこに山健組の舎弟が巣くっていた。

2007年5月、後藤総長は神戸市の路上で同じ山健組系の健國会傘下の組員に刺殺され、健國会会長の山本國春が2010年、刺殺を指示した容疑で逮捕された。1審で山本は無罪判決だったが、2014年、2審の大阪高裁で懲役20年の逆転有罪判決を受けた。これで山本は現役を引退し、健國会を解散した。が、2021年4月、山本は持病の悪化で病死した。

なぜ後藤総長は仲間の山健組に殺されたのか。当時の捜査関係者が語る。

「後藤総長は司-郄山体制が不満でしょうがなかった。殺されるちょっと前、後藤総長は親しい者と電話で話した。日頃から歯に衣着せない物言いで知られた後藤総長は、電話でも司-郄山体制に対する批判を繰り返したらしい。

これが録音テープに録られ、郄山若頭の手に渡った。郄山はすぐ執行部の一員である若頭補佐・井上邦雄を呼び、後藤について事情を糺した。井上はこの詰問に窮し、後藤を殺さないことには郄山若頭の疑念を晴らせないと腹を決め、配下の山本國春に後藤殺しを指示した。

--これが後藤刺殺の大まかなストーリーでしょう。井上は郄山にカマシを入れられ、むざむざ仲間殺しに踏み切った。井上の保身のために後藤は殺されたんです」

連鎖する殺人事件

多三郎一家を襲った殺人事件はこれだけで済まなかった。

2007年10月、昼11時ごろ、東京・御徒町「アメ横」近くの路上で2〜3人の男が拳銃で多三郎一家福富組(名古屋)の中西真一幹部を銃撃した。中西は搬送先の病院で出血性ショックで2時間後に死亡した。

事件を追及してきた全国紙の記者が神戸とアメ横、2つの殺しをつなぐ線を説明する。

「殺された後藤総長は神戸の路上で一人でいたわけでなく、後でアメ横で殺される多三郎一家福富組の中西真一幹部と一緒だった。中西はこのとき、とっさに逃げたが、犯人の顔は見ている。山健組の内部犯行説に立てば、当然、中西幹部は、犯人が山健組のどこの組織に属する誰か、ということを知っていたはずです。中西元幹部は『俺も殺られる』と言って、事件直後から行方をくらまし、4ヵ月後、組から破門され、結局は東京で殺されるわけです」

そしてもう一つ、後藤総長刺殺事件のかね合いで関連づけられる事件が起きた。

同年7月、昼近く、名古屋市昭和区の駐車場に停まっていた乗用車内で山健組内福富組・大滝良友幹部が左胸から血を流して死んでいるのを、近くの住民が発見し、地元の昭和署に届け出た。

恐怖政治が招いた「仲間殺しの残虐劇」

車はエンジンがかかり、ドアと窓は閉まっていたが、ドアロックは掛かっていなかった。大滝幹部はシートベルトをしたまま運転席で座った状態で死んでいた。服装に乱れはなく、運転席の隣の助手席に拳銃が落ちていた。手と着衣から硝煙反応は出たが、付近の住民は発砲音を聞いていない。

昭和署は自殺と他殺の両面から捜査したが、自殺なら、なぜ運転席の左側、助手席の下で拳銃が見つかったのか、捜査員の一人は疑問を口にしている。右利きの人間が拳銃を左手で撃つことはない。犯人は車を発進しかかった大滝幹部を呼び止め、運転席側の車外からドアを開けて、あるいは助手席に乗り込んで、大滝幹部の胸に無造作に銃を押し当て、大滝幹部が反射的に胸を庇ったとき、引き金を絞り、発射後、拳銃を助手席に捨てた可能性がある。

以上3つの事件が関係あるのかないのか不明だが、それにしても多三郎一家は2007年、異常な数の殺人事件に見舞われた。どの事件の背後にも、そして3事件が相次いで発生したというその連続性にも、3事件が単純な怨恨事件でなく、組織的に遂行された犯罪であることがうかがわれる。

元を糺せばすべて郄山若頭の井上邦雄山健組組長に対する厳しい事情聴取と、それに恐れおののいた井上組長の怯懦に発する仲間殺しの残虐劇だったかもしれない。

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