仮に正しいことでも妻には言えない。いや、正しいとわかりきっているからこそ言えない。その気持ちが痛いほど分かったので、岸本さんは我慢して車内で立ち続けた。

◆年配男性を無視して座った女性に対して注意したのは…

数週間後、またしてもその夫婦と同じ車両に居合わせたという。

「同じ路線の同じ様な時間でした。その時も満員だったのですが、状況が少し違って。僕は既に席に座っていたんです。でも、二人の顔は覚えてたから、『あ、あの時の夫婦だ』って気が付いて、様子を観察していたんです。しかも優先席の前でしたから」

車内で立つ女性の右側には旦那、そして左側には年配の男性が立っていた。仮に席が空いたとしても、心遣いが求められるシチュエーションだ。

「でも、やっぱりと言いますか、また同じことをしたんです」

電車が停車し、乗客が降りていく。そのとき年配男性の前の席も空いたのだが、岸本さんが席を奪われたときと同じ動作で、女が席を確保した。

「そのとき、本当にイラっとしちゃって。今にも転んでしまいそうなおじいちゃんですよ? 常識外れとかのレベルじゃないですよ。注意してやろうと思って荷物をまとめて席を立とうとしたんです。でも、同じ様に思っていた人が他にもいて」

岸本さんが行動するよりも早く、乗客の一人が女性に声をかけたという。

制服を着た女の子です。たぶん高校生だと思います。その子もお爺さんの隣に立っていたのですが、女性が席を奪ったのを見て、『それ、よくないですよ』って言ったんです。周りにもしっかりと聞こえるぐらいの声で。でも座ってる女性はそれを無視。全然動こうとしないんです」

◆女子高生の“口撃”に屈して立ち去って行った

そのまま電車は動き出したが、女子高生の注意は止まらなかった。

「『非常識じゃないですか? ルールを守りましょうよ』って。言われている女性は無視し続けていたんですが、女子高生を味方するように乗客たちが注意し始めて。座っていた女の方は全然立ち上がろうとしなかったんですけど、旦那さんが先に立ったんです。それで女性の方に、『もう行こう』って」

夫婦は席を立ち、二つの席が空いた。そこのひとつに年配男性が座ったが、もう一つの席は誰も座らず次の駅に着くまで空いたままだったという。たしかにそのやり取りを見ていたら、座りづらいのはわかる。結局、電車が止まると夫婦は逃げるように降りていった。

「それから二人の姿は見てないです。でもきっと同じ様なことは今でもしてると思いますね」

公共の場でのマナーには明確なルールが定められていない。女性が行った席の確保も、マナー違反ではあるのかもしれないが、ルール違反ではないだろう。いっそのこと「マナー」という曖昧さを無くしてしまった方がトラブルを減らせるかもしれない。息苦しさは増えるかもしれないが。

◆■ 数字が語る「マナー問題」

公共の場での譲り合いが、一人の身勝手な振る舞いで踏みにじられてしまう。

日本民営鉄道協会が2025年10月1日から11月30日までの2か月間、WEB上で実施した「駅と電車内のマナーに関するアンケート」には、5,202名もの回答が寄せられました。

この最新調査によれば、今回のエピソードに深く関わる「荷物の持ち方・置き方」を迷惑だと感じている人は、回答者全体の20.1%にのぼります。さらに「乗車列への割り込み」についても20.0%が不快感を露わにしており、実に5人に1人がこうした強引な振る舞いに強いストレスを感じているのが現実です。

誰もが疲れを抱え、余裕をなくしがちな満員電車の中。それでも、自分のことと同じように「隣にいる誰か」の存在をほんの少し尊重する。そのささやかな想像力こそが、殺伐とした車内の空気を変え、何より自分自身の心を健やかに保つための、大切な一歩になるのかもしれません。

<TEXT/山田ぱんつ 再構成/日刊SPA!編集部>