(※写真はイメージです/PIXTA)

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「現金派は時代遅れ」「キャッシュレスこそが賢い選択」そんな風潮が当たり前になった今、あえて分厚い札束を持ち歩く富裕層がいます。彼らが恐れるのは、デジタルの利便性に隠された「見えないコスト」と、有事の際のリスクです。本記事では、FPの川淵ゆかり氏のもとへ寄せられたAさんの事例から、現代人が忘れているお金の本質と、資産を守るための危機管理術を学びます。※事例は、プライバシーのため一部脚色して記事化したものです。

毎朝の日課、「財布には常に渋沢栄一が20人」

72歳のAさんは、いまだ現役の会社経営者です。彼が経営するのは、地元で半世紀近く続く精密部品メーカー。バブル期に大手メーカーとの取引が拡大し、会社を大きく成長させました。現在も年商数十億円規模を誇る堅実な企業で、Aさんの役員報酬は年間3,000万円、総資産は3億円以上になります。43歳の長男は専務として勤めており、Aさんは将来、後を継がせるつもりです。そんなAさんには、長年続けている、ある日課があります。

徹底した現金主義であるAさんは、平日の朝、毎日必ずATMに立ち寄ります。目的は、財布の中身がきっちり1万円札で20枚になるように補充すること。ゴルフや会食のある日などは、さらに多めの現金を持ち歩いており、家や会社にもある程度の現金は保管しているといいます。

息子にとって、父親の行動は不可解でしかありません。分厚い財布をみるたびに「なんでそんなにいつも現金を持ち歩くの? 危ないからやめたほうがいいよ」と注意します。息子自身は、クレジットカードの特典やポイント還元、アプリ決済の利便性を享受しており、日ごろから父親の非効率な現金主義には疑問を持っていました。

ある夜、めずらしく親子二人だけで酒を酌み交わしていたときに、息子はこの疑問をぶつけました。すると、Aさんは懐かしそうに目を細め、意外な昔話を始めました。

「いやぁ、お前と同じ年ごろのときにね、友達と寄った店の女の子にバッグをねだられてねぇ。勢いで持ってたクレジットカードで買ってやったんだよ」

当時はバブル絶頂期。日本中がお祭り騒ぎのような時代でした。

「断るなんてカッコ悪くてできないんだよ。友達の手前もあるしね。そうしたらあとからカード会社からの請求書が家に来てね。母さんがみて怒りまくってね。その足で宝石店に連れていかれて『あのバッグよりも高い値段のものじゃないとダメよ!』って、ネックレスを買わされたことがあったんだよ。あれからクレジットカードは使わないようにしているんだ」

ですが、息子は、好々爺としている父親の経営者としての鋭い面もよく知っています。

「なんでよく知らない女の子にバッグなんて買うんだよ。僕なんて奥さんからねだられても3日は考えるよ。父さんのことだからほかにも理由があるんだろ」と、なかなか二人きりで話す機会がないせいか、つっこんで聞いてきました。

経営者だからこそみえる「キャッシュレスのコスト」

息子が食い下がると、Aさんは真面目な顔つきに戻り、二つ目の理由を語りはじめました。

「うん、まぁ、ああいったカード類で買い物をすると、カード会社やら銀行やらにこっちの趣味趣向が知られる気がしてね。まぁ、問題はないと思うんだけどね。それに昔、税務調査で口座を全部ひっくり返されたことがあってな。金融機関に履歴が残る、というのも嫌なんだよ」

さらにAさんは続けます。

「銀行といえば、連休明けにシステム障害で振り込みができなくなって、会社でも大騒ぎになったこともあったじゃないか。古いと思われるかもしれないが、ITやらAIやら便利にはなっていくようだけど、自分にはどうしても信用できないところもあるんだよ」


今日は気分がいいのか、饒舌になったAさんは水割りをおかわりしながら、さらに経営者視点での「キャッシュレス論」を展開します。

「お前はこうやって飲みに来たらカードで払うんだろ。そういったキャッシュレスが物価上昇につながるのを知っているかい?」といいます。

「え? だって、カードで払うとポイントが付いたり、キャンペーンなんかでキャッシュバックもあったりするじゃないか。得なんじゃないの?」息子が反論すると、Aさんは諭すようにいいました。

キャッシュレス決済には、クレジットカード手数料が3〜5%必要だし、QRコード決済にも加盟店手数料が必ず発生するだろ。店側はこのコストを吸収できないから最終的に商品価格に転嫁するのさ。ポイント還元やキャンペーンは結局は“事業者のマーケティング費用”だよ。消費も刺激するけど、キャンペーンが終わっても値段はもとに戻らないだろ」

Aさんは自身のグラスをみつめながらいいます。

「経営者ってのはどうしてもこういったコスト感覚が抜けないんだよ。それにカードだとついつい使いすぎないかい? 自分も歳だからな。飲みすぎ防止のためにも現金で払ってるんだよ(笑)」

「黒字でも会社は潰れる」銀行の手のひら返しと現金の重み

笑って話していたAさんでしたが、ふと表情を引き締め、息子を見据えました。ここからが、今日一番伝えたかったことのようです。

「『どんなに赤字でも現金さえ尽きなければ倒産しない』という話を聞いたことはないかい? 逆に黒字でも現金が尽きれば倒産することだってあるんだよ」

いわゆる“黒字倒産”の話です。


「バブルがはじけたあとにはね、うちの会社も傾いて本当に大変だったんだ。ほかに倒産した会社の話もけっこう聞いたよ。銀行なんかも多くの不良債権を抱えちゃってね、すごく慎重になって、企業への貸し出しに急に渋くなってな」

Aさんの脳裏には、当時の苦い記憶が焼き付いています。

「あのときの銀行の手のひら返しは絶対に忘れないよ。でも仕入れ代金や従業員の給料の支払いはしないといけないだろ。おじいちゃんやら友達やらに頼みまくって現金をかき集めて支払ったんだよ」

「あぁ、いまだとファクタリング会社で売掛金を現金にできるけど……。でも売掛先の信用によっては手数料なんかも違うしね。確かに経営者としては現金は大事かもね」と息子も納得した様子です。

「現金を持っていて得したこともあったよ。バブルで土地が値上がりしていたときにね。不動産屋にまとまった現金をみせてね。即決値引きで欲しかった土地を手に入れたこともあった。現金の破壊力だよ。値下がり前に売り抜けてね。あれは儲かったな(笑)」

富裕層があえて「現金」を使い続ける理由

夜も更け、Aさんは最後のグラスを飲み干しました。

「現金にはいい想いをさせてもらったこともあるし、苦労をさせられた経験もある。だから毎日使った分をATMで補充して、感謝の意味も込めて、昨日いくら使ったかを再確認してるんだよ」

店を出るとき、息子は財布を取り出しながらいいました。

「父さん、今日は僕がおごるよ。なんかすごい勉強させてもらった気がするんだ。今日は僕もカードじゃなくて現金で」

「便利さ」と引き換えに失う、家計管理の実感

Aさんの「毎日ATMで20万円を揃える」という行動は、一見するとデジタル時代の逆を行く非効率なものに映るかもしれません。しかし、そこには極めて合理的で、現代人が見落としがちな「資産防衛の極意」が隠されていました。

キャッシュレスが進む時代でも、家計や事業の健全性を守るうえで“現金の動きを自分の感覚で把握すること”は非常に重要です。Aさんのように現金とキャッシュレスを自分の価値観で使い分ける姿勢は、資産形成においても有効な選択肢の一つだといえます。

川淵 ゆかり

川淵ゆかり事務所

代表