新選組=“剣豪集団”は誤解!西洋戦術、斬らずに捕縛、近藤勇は政治家…最新研究の成果で見えた実像
「フランス式」の新撰組
新撰組といえば剣豪集団というイメージが定着しています。
隊士の誰もが手練の剣士・撃剣の達人の集団で、白兵戦技に長けており、全員が最後まで武士道を貫いた集団であるかのように思われがちです。
しかし、実際には近代的な装備を調え、洋式訓練をおこなっていた集団であることは知らない方が多いのではないでしょうか。
幕末期、新選組は「刀」に見切りをつけていた!西洋式戦術を取り入れた柔軟な戦闘スタイル【前編】


おなじみの「誠」のイメージ
まず装備面から見てみましょう。新撰組は西本願寺を訓練所として使用し、そこでフランス式の軍事教練を行っていました。
扱っていたのは刀だけではありません。小銃や大砲といった近代的な武器の訓練も積極的に取り入れていたのです。
斬らずに捕縛
捕縛の方法も非常に合理的でした。一対一の剣術勝負ではなく、常に多数で取り囲む戦術を基本としていました。
これは、後年には新撰組が採用した「剣士としての必勝の戦法」として語られがちですが、あくまでも彼らの目的は「捕縛」にあったことがポイントです。
例えば、幕府が掲げた制札を土佐藩士8人が引き抜こうとしていた三条制札事件では、この不埒者の土佐藩士8人をわずか隊士3人で取り囲んで捕縛することに成功しています。
これは個人の剣の腕よりも、組織的な戦術が重視されていたことを示しています。
また、かの有名な池田屋事件についても誤解だらけです。新撰組が池田屋の屋内外で志士たちをバッサバッサと斬り捨てたイメージを抱いている人も多いでしょう。
確かに斬殺された志士もいましたが、実際には多くの志士が捕縛されています。これは記録にも残っており、殺害よりも生け捕りを優先していたのが実情でした。
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京都市の池田屋跡。名前を使用した居酒屋になっている(2009年・Wikipediaより)
近藤勇の実像
近藤勇の人物像についても見直しが進んでいます。
彼は農家の三男として生まれ、剣術を学んで近藤家の養子となり、天然理心流の後継者になりました。
試衛館で土方歳三や沖田総司と出会ったのは有名な話です。
あの、頑固そうないかつい顔立ちの有名な肖像から、いかにも剣豪というイメージが強い近藤勇。

近藤勇(Wikipediaより)
しかし、小説やドラマで描かれる豪快な剣豪としての近藤像に対して、現代の研究者たちは疑問を投げかけており、最近では彼の政治活動こそが注目されています。
近藤は徳川家茂の上洛時には老中・板倉勝静と面談し、将軍の滞在延長を画策しました。「勤王攘夷」を掲げ、京都の治安回復を含む詳細な政治活動要綱まで記していたのです。
これらの史料から分かるのは、近藤が単なる剣の達人ではなく、計画的に行動する政治家だったということです。慶応3年には新撰組が徳川慶喜直属の軍隊となりましたが、これは近藤の政治的力量が正式に認められたためでした。
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新撰組については、各種エンタメ作品で親しまれているイメージはがありますね。例えば、
《近藤勇の政治感覚などは、現代でいえば田舎の市議会議員程度である》(『燃えよ剣』司馬遼太郎)
といった考え方や、
《京の町にひそむ勤王志士や浪人たちを探し出しては、これを襲った≫(『幕末新撰組』池波正太郎)
というものです。
結局、こうしたイメージはイメージに過ぎず、ほぼ小説家による創作だったのです。
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参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia

