会社員生活を捨てプロバレリーナの道へ…「週5日はカフェでバイト」でも希望を捨てない21歳女性の言葉
※本稿は、渡邊永人『崖っぷちの老舗バレエ団に密着したらヤバかった』(新潮社)の一部を再編集したものです。

■安定したOL生活を捨て、プロバレリーナに
「今日から入居なので、まだ何もないんです」
家具も何もない、がらんとした6畳ほどのワンルームの部屋。アリスさんのバレリーナらしい部屋と比べると、あまりにも素っ気ない。
「今あるのはエアコンだけ。だから声が響き渡るんです」
殺風景な部屋とは対照的なカラフルなニットに身を包み、笑顔でハキハキと話す彼女は森岡恋さん、21歳。
アメリカのプロバレエ団に所属していたが、コロナが原因で日本に帰国。2年間の会社員生活を経ながらもバレエ復帰を決意し、心機一転上京して谷桃子バレエ団に入団した。これまでは知り合いの家に居候していたが、入団から1カ月経過したこの日、一人暮らしを始めるという。
「家賃は6万4000円です」
23区内のワンルームということで考えれば贅沢とは言えない金額だろう。お金はどう工面するのかと聞くと「自分で払います」とあっけらかんと話す。ニコニコ笑顔がトレードマークの恋さんだが、彼女の口から溢れる言葉にはどこか力強さがある。
安定したOL生活を捨て、プロバレリーナとして復帰する恋さん。自らの意志で決めたからには、親には迷惑をかけられない、自分のことは自分で面倒を見るのが当たり前。そう話す表情には迷いがない。その一方で、これからの生活の不安を自らの言葉でかき消そうとしているようにも見えた。
■週5日くらいはカフェでバイト
「自分で払う」とは言うものの、入団して間もない現在は、舞台出演のギャラもなく、バレリーナとしての収入は0円だ。もっと言うと、団費なども含めたらマイナスになってしまう。
「当面の間、お金はどうするんですか?」
「今はカフェでアルバイトをしてます」
通常、バレエ団での練習は朝からお昼にかけてなので、終わったらカフェに直行して、夜まで働いているそう。まるで学校終わりにバイトへと向かう高校生のように。
「家賃に加えて光熱費とかも合わせたら本当にカツカツなので、多分来月からはもっとバイトを増やします。大体週5日くらい。増やさないと生活していけないので」
本当にそんなことが可能なのか、と僕は思った。ケロッとしたトーンで話すから、そんなに大変そうには聞こえないのだが、バレエの練習だって相当ハードだ。今日に至るまで何度かバレエ団の練習を撮影しているが、かなりの体力を使うことを僕も知っている。バレエ団の練習後に立ち仕事であるカフェバイトを週5日とは、とんでもない体力を要するだろう。
バレエをしたくて上京したのに、蓋を開けてみればカフェでコーヒーを淹れている時間の方が長いという現状について、どう思っているのか。
「もどかしいですよ。もちろんバイトの時間を練習に充てればもっと上手になれるはずだけど、そうかと言って練習時間にはお金は発生しないから、バイトをしないわけにはいかない。バレエよりもラテアートの腕がどんどん上達していくんです」
■「バレエの先生」をバイトにする人が多い
恋さんは淡々と話すが、これは果たして笑っていい冗談なのか、と逆に困惑してしまう。
そんな恋さんの話を聞いて、ある言葉を思い出した。
「好きなことで、生きていく」
少し前にYouTubeが掲げたキャッチフレーズだ。
しかし現実はそう甘くない。もちろんバレエ界に限ったことではなくて、どの業界もきっとこんなような現実が腐るほどあるとは思う。しかし、バレエは舞台上が華やかなだけに、そのギャップが激しい。バレリーナの実際の生活を見てそう思った。
「好きなことで生きていけない現実」がある一方で、バレリーナは「バレエの教え(先生)」をバイトにする人が多いという。なぜならその需要が日本ではとても多いからだ。密着開始前に調べたネットの情報にあった通り、「習い事としてのバレエ」においては日本はバレエ大国なのだ。
そんな需要に対して「プロバレエ団に在籍している」という、ある種のブランドを使って集客をし、自ら教室を持ったり、講師として外部の教室に招かれ、その指導料で稼ぎを得る。それが一つのビジネスモデルとしてバレエ界では確立されている。「自らが踊る」よりも「教える」ことの方が稼げる。そうして教わった生徒がプロとなり、再び教える側に回る。こうして日本のバレエビジネスが形成されている。

■「プロとして踊るだけで食べていく」のは日本では困難
やはり海外のように、「プロとして踊るだけで食べていく」というのは日本ではかなり困難な道らしい。
バレエの教えのバイトはしないのかと恋さんに聞くと、「まだ教えられるような立場ではないので」と即答された。
実際のところ彼女ほどの肩書き(元アメリカのプロバレエ団員)と実力があれば、教える側としての需要はあるだろう。とはいえ復帰したばかりの恋さんは「今は自分の能力を高める方に向き合いたいので、変に教えのバイトはしない」という考えらしい。
しかし、実際問題、その「成長のために自分と向き合う時間」がバレエとは関係のないカフェバイトに取られてしまうという負の連鎖に陥っているように僕は感じてしまった。
この日が入居日だが、家具や家電はまだない。あるのは大きなスーツケースのみ。これが彼女が今持っているものすべて、と言っても過言ではない。
荷解きを始めると、ぎゅうぎゅうに押し込まれた洋服などの生活用品の中から、光沢のあるピンク色の靴のようなものがいくつも姿を現した。
「これは何ですか?」
■「ポワント」で1カ月1万円の出費
「これはポワントと言って、バレリーナが履くシューズです。つま先の部分が固くなっていて、つま先立ちで踊るバレリーナにとっての必需品です。これも意外と高いんですよ。1足1万円以上します。でも高い割に、すぐ潰れちゃう消耗品なんです。だいたい1カ月も履けばボロボロです」
1カ月1万円。バイト生活の彼女にとっては痛すぎる出費だろう。生活費はもちろんだが、バレエのための道具にもかなりお金がかかる。「本当にやっていけるのだろうか」親が子どもを心配するような気持ちになりながら、僕はカメラのモニター越しに彼女を見つめていた。
恋さんも他のバレリーナ同様、幼少期の5歳からバレエを始めたという。
「子どもの頃はバレエにかかるお金のことなんか、正直何も考えてなかったです。ポワントも潰れる度にしょっちゅう買ってもらっていました。だから自分で買わないといけなくなった今になって、あらためて親への感謝が込み上げてきます」
アメリカのプロバレエ団時代には無料でポワントが支給されていたそうで、自分の稼いだお金でポワントを買うのは、これが初めてだという。
「今の生活だと、ポワントを買う余力も正直ないです。ニスを塗って乾かして、つま先を固めて、という作業を繰り返してなんとか長持ちさせられるように工夫してます」
■次々と経済的な壁が立ちはだかる
バレエを上手くなりたいという思いに反比例するように、次々と出てくる経済的な壁。
「何か打開する方法はないのか」と自然に頭が動き出す。
つい最近まで、バレエのことなんて1ミリも考えたことがなかった僕が、取材を始めて間もないこの時には既に、その厳しすぎる現実から目を逸らせずにいた。
何もない6畳のワンルームの真ん中で、ボロボロになったポワントを大切そうに取り出す恋さんの姿をカメラに収めた。同時に、今ある自分の環境に感謝した。「動画を撮影する」という、自分が好きだなと思える仕事である程度の生活ができているこの環境に。
荷解きがある程度終わり、ソファーや椅子もないので部屋の床に直接座り込みながら恋さんは淡々と話す。
「バレエを職業と言えない人の気持ちもわかります」
日本におけるプロバレエ界の経済的な大変さを、バレリーナ本人たちが誰よりも自覚している。だから彼女たちがそのことを話すときは「当たり前」のように話すのだ。そう、ここではそれが当たり前なのだ。バイトをしながらバレエをする。バレエだけでは食べていけない。それが日本では根付いてしまっている。だからこそ変わらない。いや変える必要すらないと思っているのでは。そんな風に僕には見えてしまった。
■「私も頑張ったら上がれる」
傍から見れば、希望を失ってもおかしくないような厳しい環境に身を置きながらも、21歳の恋さんは力強く話す。
「苦労している人の方が上に上がれる。だから私も頑張ったら上がれる」

「上に上がれる」その上とは何なのだろうか。上に上がったらバレエだけで食べていけるようになるのか。恋さんのひたむきな人柄を知れば知るほど、次々と溢れるモヤモヤとしたやるせない気持ちを抑えるのに必死だった。
「頑張って上に上がってください」
無責任この上ない言葉をなんとか絞り出し、この日の撮影は終わった。
まったくバレエに関わりのなかった僕が、徐々にバレエの世界へと足を踏み入れている。そこには正面から見た華やかなバレエの世界とは程遠い、過酷な現実が容赦なく広がっている。バレエへの入り口を完全に間違ってしまった。そんな感覚だった。
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渡邊 永人(わたなべ・ひさと)
映像ディレクター
1995年神奈川県生まれ。20歳でテレビ番組制作会社に入社後、ディレクターとして「ハイパーハードボイルドグルメリポート」等を担当。現在は『THE ROLAND SHOW』『進撃のノア』等のYouTube動画を手掛ける制作会社に所属。谷桃子バレエ団公式YouTubeの他、小学館の漫画編集部に密着した『ウラ漫 ―漫画の裏側密着―』等を制作している。
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(映像ディレクター 渡邊 永人)
