「(DASH村がなければ)おカアちゃんが死んだとき(2001年)におれも死んだろうな」。2014年6月6日、84歳で亡くなった三瓶明雄さんは、「ザ!鉄腕DASH!!」の今村司プロデューサー(当時)にこう話していたという。

福島県の一農家だった「明雄さん」が人々に知られるようになったのは、2000年のことだ。

テレビに自分が映っていてびっくり

福島県浪江町の一角に「DASH村」を一から作るという企画のため、近所に住んでいたことから農作業などの指導役として招かれた。

明雄さんの聞き書きを収めた『DASH村からワシが伝えたかったこと』によれば、本人は当初あくまで裏方のつもりで、「撮影のじゃまにならないように」アドバイスを行っていたという。ところが放映された番組を見てみると、「農業指導 三瓶明雄さん」のテロップ付きで、自分の姿がでかでかと映っていた。

これには当然びっくりしたし、急に有名人になったことに戸惑いもした。また企画が始まって間もない2001年には、40年余り連れ添った愛妻・アキエさんを亡くしている。しかし明雄さんは、TOKIOを初めとする若い「村人」たちに、世代を超えてこれまでの体験を伝えることに喜びを見出した。それとともに、「幸せ者だなと、思えるようになった」「見知らぬ人に応援していただく幸せは、今まで考えもつかなかった」と、境遇の変化を前向きに受け止めていったという。

開拓民としての経験をDASH村に伝える

番組中では、農業だけではなく村づくりに必要な幅広い知識・技能を発揮し、TOKIOのメンバーたちを驚かせることもしばしばだった。これは「開拓民」として育った生い立ちによるものだという。

原生林を切り倒し、荒れた土地に鍬を入れ、畑へと作り替える――貧しい暮らしの中、明雄さんの両親は20年をかけて、ようやく自らの農地を手に入れたという。DASH村にも登場した炭焼きは、畑ができるまでの貴重な収入源だった。

成長した明雄さん自身も開墾に従事し、おなじみのDASH村とその周辺一帯も、元々林だった土地を、明雄さんたちが切り開いた。今村プロデューサーは講演の中で、「(DASH村は)明雄さんがあの土地を開拓したことを手本にやっています」と語っている。

原発事故後も精力的に出演

2011年、東日本大震災に伴う福島第一原発事故により、DASH村は避難区域に指定され、現在に至るまで企画は中断状態が続いている。自身も避難を余儀なくされた。その中でも、全国各地を回って農業の現場を訪ねる企画に出演し、80歳を過ぎてなお元気な姿を見せていた。

上記の聞き書きの著者である太田空真さんには、死について「いつかその日が誰にもやってくる」と語り、むやみにそれを恐れるより、それまで生をまっとうすることの方が大切だと語っていたという。8日の放送では、TOKIOのメンバーからの追悼メッセージが放映される予定だ。