前置きが必要だろう。『デイリー・メール』や『ガーディアン』、『インディペンデント』『サン』といったイギリスのメディアで15日に報じられたコメントは、実際にはすでに1年前にユヴェントスMFアンドレア・ピルロの自伝の中で語られていたものだ。当時はイタリア語のみでの出版だったために、イングランドで注目されなかっただけである。それが今、英語に翻訳されたことで、突然注目を集めたのだ。

例えば、インテル時代にロイ・ホジソン監督がピルロを「ピルラ(間抜け)」と呼んでいたことだ。だが、ホジソン監督はピルロを侮辱したかったのではない。ピルロはホジソン監督が「おそらくほかの監督たちより僕がどういう人か分かっていたから」と話している。1999年、インテルは監督を4人も代えた。ピルロは「朝起きて、誰が監督だか覚えていなかったほど」と述べている。

ピルロが喜んで忘れたいと思っているのは、2005年のチャンピオンズリーグ(CL)決勝でリヴァプールにイスタンブールで敗れたときのことだ。「集団自殺」と称したこの一戦について、彼はこうコメントしている。

「真剣にサッカーをやめることを考えた。無意味だと思ったからだ。もう自分がサッカー選手と感じず、男でもないと感じていた。鏡を見る勇気もなかったよ。あの試合以降、僕らは『イスンブール症候群』と言われる似たような症状の病気をつくってしまったんだよ。今でもあの夜に何が起きたのか、本当のところは分からない」

2009年夏にチェルシー移籍を止めたのは、シルヴィオ・ベルルスコーニ氏だ。

「(カルロ・)アンチェロッティ監督がチェルシーに行ったばかりで、僕らはすでに合意していた。僕にとってカルロは父であり、マエストロなんだ。自分を常に楽しませてくれる人なんだよ。彼とはキャリアで最高の日々を過ごした。だから、ロンドンへ移籍することを受け入れていたんだ」

「でも、ベルルスコーニが紙を取り出した。(クラース=ヤン・)フンテラールの名前に丸がしてあって、ミランが彼を獲得したと言われたよ。『君にそんなことはできない、アンドレア。君はミランのシンボルだ。我々はすでにカカーを売った。君が船を見捨てることはできない。我々のイメージにとって最悪だからだ』とね」

だが、アンチェロッティ監督とピルロはこだわり続けた。チェルシーは年俸500万ユーロ(約7億円)の4年契約を用意していたのだ。そこで、ミランはチェルシーにDFブラニスラフ・イバノビッチをトレード要員とすることを求めた。チェルシーに放出するつもりがないことを知りつつ、である。こうして、ピルロのチェルシー移籍は決まらなかった。

翌年にはバルセロナ移籍も実現しなかった。ミランとのガンペールカップ終了後、ペップ・グアルディオラ監督はピルロをオフィスに招き、30分に渡して話し合った。彼の獲得を望み、彼を指揮したいと伝えた。だが、このときもミランが反対したのである。

すでに決まっている2つの未来は、ブラジル・ワールドカップでイタリア代表を去ることと、ベンチで指揮を執ることはないということだ。「監督の生活は選手のそれとあまりに似ている。引退したら、僕は私生活を保ちたいんだ」

2004年4月7日、チャンピオンズリーグ準決勝ファーストレグで4−1と勝利しながら、セカンドレグでデポルティボ・ラ・コルーニャに0−4と敗れたときのことについては、ドーピングにも触れている。

「証拠があるわけじゃない。だから、責めているんじゃないよ。決してそんなことはできない。単純に、悪い考えがよぎったということだ。だけど、人生で初めてピッチにドーピングしている選手がいるんじゃないかと疑った。きっと、まだ怒りを抑えられていなかったからだろうね」

「デポルティボの選手たちは、すごく興奮していた。彼らだけが感じていた目標に向かってダッシュしていたんだ。準決勝で彼らはポルトと対戦し、敗退した。それから、彼らは重要な大会すべてからいなくなった」