【穂積 昭雪】《渋谷駅の象徴・忠犬ハチ公》孫は、本当にすき焼きにされて食われたのか?「ハチ公の孫ビジネス」が横行していた昭和の実態
ハチ公には妻子がいた
ここまで、東京・渋谷で飼い主を待ち続けた「忠犬ハチ公」の孫にあたる秋田犬「鉄」が、宮城県仙台市ですき焼きにされて食べられた、という記事の発掘について述べた。
詳しくは前編記事〈渋谷駅のハチ公にまつわる裏話…忠犬の孫が、東北人に《すき焼き》にされて食われていたという「衝撃報道」〉を読んでほしい。
本稿では、記事そのものの信憑性および当時の時代背景に追っていきたい。
孫の事を知るためには祖父であるハチ公の前提知識が必要となる。前編でも紹介したが、一般的に知られているこの忠犬の概要を振り返っておこう。
秋田犬である忠犬ハチ公は、1923年(大正12年)11月(10月説もある)に産まれ、翌1924年1月に東京帝国大学農学部・上野英三郎博士のもとに贈られ、「ハチ」と名付けられる。
ハチは渋谷駅を利用する博士の送り迎えをはじめたが、1925年、上野博士は急逝。その後、都内の別の家庭で育てられたが、上野博士の事が忘れられずどうしても渋谷駅に向かってしまうハチを思って、上野夫人は渋谷時代からハチを可愛がっていた植木職人宅へ預ける事にした。そして、ハチ公の渋谷駅への日参は、1935年(昭和10年)3月8日のハチ公の死まで続いた。
この事からわかる通り、ハチ公は東京の上野博士宅へ預けられた後は亡くなるまで東京で暮らしており、秋田への里帰りや仙台へ出かけた記録はない。そして、すき焼きにされた鉄がハチ公の孫だとするならばハチ公には当然、妻と子どもがいたはずである。
実はあまり知られていないのだが、ハチ公には妻と子どもがいた。
ハチの子ども「クマ」の存在
妻は代々木深町に住む伊藤という家庭で飼われていた「デビー」という、メスのフォックステリアであった。ハチとデビーの間に産まれたのが「クマ」と名付けられた子犬である。
クマは父親がハチ公と呼ばれていたため「クマ公」とも呼ばれており、クマ公はハチ公の肉親として青山墓地で行われたハチ公の葬儀などにも姿を見せており、ハチ公の没後もそれなりに注目を集めていたようだ。
だがフォックステリアを母に持つためか耳周りが黒く、秋田犬であるハチ公とは顔立ちを含めてあまり似ていない。
さて、すき焼きになった鉄はクマ公の子どもだったのであろうか。残念ながら、その可能性はゼロに等しい。
河北新報の記事では鉄は「忠犬ハチ公の孫にあたる純秋田犬」となっているが、フォックステリアと秋田犬のミックスであるクマ公から、純秋田犬が産まれる事はまずあり得ない。
さらにクマ公は1931年(昭和6年)生まれであり、1948年(昭和23年)生まれの鉄とは17歳も差がある。秋田犬の寿命は平均で10〜13歳であるため、鉄がクマ公の子どもと仮定するには年齢が少々離れすぎている。
以上の事から、鉄が「ハチ公の直系の孫」であった可能性は限りなく低いといえる。
となると、他にも「孫」を名乗る犬は全国にいたのではないだろうか……?
「ハチ公の孫ビジネス」の実態
筆者が調べた限り、その予想は的中しており、実は鉄以外にもハチ公の孫を名乗る秋田犬は日本中に存在していたのだ。なかにはなんと、デパートで販売された孫までいた事がわかった。
1937年(昭和12年)1月19日付の読売新聞に「辰巳を手こ摺した(てこずらした)忠犬ハチ公の孫」なる記事が掲載された。
辰巳とは緒形拳の師匠としても知られる俳優・辰巳柳太郎の事である。実は大の愛犬家だった辰巳は、なんとハチ公の孫を飼育していたのだという。
記事によると、辰巳は「嘉兵衛」という日本犬を飼っていたが、高齢であまり元気がなく新しい犬を飼いたいと考えていた。辰巳は大阪への巡業中、同行した弟子に「元気な犬を探して欲しい」と頼んだ。弟子が南海高島屋(現:大阪高島屋)へ行ってみると、そこにはなんと、「忠犬ハチ公の孫」にあたるという血統図付きの白い秋田犬が売られていた。
弟子から「ハチ公の孫が売られています!」との報告を受けた辰巳はさっそくその犬を買い取り、自分の幼名であった「吾作」と名付けた。しかし、当の吾作はケンケンと大声で鳴き、そこら中に糞をするため辰巳も愛想を尽かしてしまい、吾郎の名前を取り上げてゴロツキを意味する「四郎蔵(しろぞう)」という名前に格下げしてしまったという。
本記事はオチまでちゃんと付いている、いわゆる「オモシロ芸能記事」のひとつであるが、東京から離れた大阪のデパートで「ハチ公の孫が売りに出されていた」という話は本当なのだろうか。
当然、ハチ公が生前に大阪に行けるはずもなく、またハチ公には雑種であるクマ公しか子どもがいないとされているため、辰巳柳太郎が見た血統図はニセモノであった可能性は限りなく高い。
そして、この記事が真実であるならば、大阪に限らず「ハチ公の孫」を騙る怪しい犬がニセの血統図付きで売りに出されていた事にもなるだろう。もしかしたら、すき焼きにされた「鉄」もハチ公の孫を騙った可哀想な犬であった可能性が高い。
「犬食」というタブー
以上の事から「鉄」が忠犬ハチ公の孫であった可能性は限りなく低そうであるが、少なくとも終戦直後の仙台市にて秋田犬が盗まれ「すき焼き」にして食べられてしまったのは紛れも無い事実である。
本稿では最後に「犬食」について簡単に触れておきたい。
「犬を食べる」という行為は現代人、とくに愛犬家にとっては信じられない話と思われるが、戦中・戦後は食糧事情が大きく異なる点に注目して頂きたい。
仙台市は1945年(昭和20年)7月20日の仙台空襲により駅をはじめ市街地の多くが焼かれ、仙台駅の近くには闇市が立ち並ぶなど食糧事情が荒れていた。当時の若者がハチ公の孫だと知らずに秋田犬を食べてしまった背景としては、ハチ公の孫事件を報じた河北新報(1948年12月9日号)にて以下のような記述がある。
「若者五、六人が集まっていつものように食べようとばかりブタ小屋の前にさかさに吊るし」
つまり、当時の仙台市では豚の代わりとして犬が日常的に食されていた事が伺えるのだ。
もっとも、犬肉は当時から「野獣肉」とも呼ばれており、味については牛や豚には遠く及ばない「野蛮な食べ物である」という認識を持っていたようだ。
菅原文太も知っていた…?
この犬肉=「野蛮な食べ物」であった事を象徴する映画がある。東映のヤクザ映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年公開、監督:深作欣二)である。
本作には戦後の広島を舞台に、菅原文太演じるヤクザの兄貴分が舎弟に騙され犬の焼肉を食すという場面が登場する。最初は肉に舌鼓を打っていた菅原のアニキだったが、通りすがりの野良犬に焼肉をあげたところ、吼えるばかりで食べようとせず、ようやく自分が犬肉を食べさせられた事に気が付き、思わず酒で口を消毒する……というシーンは戦後の犬食に対する穢れをよく表している(完全に余談だが、菅原文太は仙台市出身で父親は河北新報の記者であった。1933年生まれの彼ならハチ公の孫の話を知っていたかもしれない)。
秋田犬は日本犬唯一の大型犬であり、その大きさは個体にもよるが肩高約70センチメートル、体重約50キログラムで子牛ほどに成長する。
さらに当時15万円(公務員の初任給2990円の時代なので時価900万円以上だろうか)もする純秋田犬の肉質を目の前にすれば、食べ物のない時代のこと「貴重な食料」と思ってしまうのも仕方がないと言える。
なお、仙台市は地元住民たちの協力もあり1961年(昭和36年)に完全に復興を終え、近代的なビルが立ち並ぶ大都会へ成長。戦争の傷跡はほとんど残っていない。
もしかすると「すき焼きになったハチ公の孫」というスキャンダルは、完全復興を目指した当時の仙台市民にとって「忘れたい歴史」のひとつだったのかもしれない。
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