「これで日本全体が変わると」…終戦を機に女優を目指した「華族の令嬢」 戦後日本が「久我美子」に託したものとは【昭和女優ものがたり】
2024年6月9日、女優の久我美子(くがよしこ)さんが93歳で死去した。父は侯爵、母は裕福な家庭にの出身だったが、終戦の2年後、15歳で女優の道を歩き始めた少女は、やがて「わが青春のアイドル」とも呼ばれるほどの人気を博す。戦争で疲弊した日本が彼女に託したものとは何だったのか。映画解説者の稲森浩介氏が解き明かす。
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【新潮社の秘蔵アルバム】意志の強そうな目元と漂う清楚さ…美しき20代半ばの「久我美子」
侯爵の娘から女優へ
華族出身の女優として知られる久我美子は、その清楚な姿と毅然とした美しさで、戦後日本映画界のアイドル的存在だった。彼女は、どのように愛されたのだろうか。代表作を観ながら探ってみたい。

久我は1931年1月21日、東京で生まれた。久我(こが)家は、公家華族のなかでも五摂家と並ぶような家柄だ。侯爵の父、そして母も映画や芝居を好み、子供のころから映画館に連れて行ってもらったという。
久我が女優になる決心をしたのは、終戦詔書をラジオで聞いた1945年8月15日、勤労動員工場で風船爆弾を作っていた時だ。
「悲しかったんですが、これで日本全体が変わると思ったんです。いままでと違う価値観が出てくるに違いない。これでわたし女優になれると」(川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』文藝春秋)
国民すべてが敗戦で茫然とする中、華族制の下で育った久我は、新しい世界の可能性をいち早く見出した。そしてその決心は、映画界に新しい風を吹き込むことになる。
溌剌とした演技を見せた15歳
女子学習院中等科三年の1946年5月、東宝の第一期ニューフェイスに応募し合格する。学校や家族には言わずに決めたことだった。当然反対にあったが、女子学習院を中退し、10月に東宝専属となる。同期に三船敏郎や若山セツ子らがいた。
当時東宝は映画界を揺るがす大争議中で、大物俳優が大量に脱退。そのために新人にチャンスが回る。久我はオムニバス映画「四つの恋の物語」(1947年)の第一話「初恋」の主役に抜擢されデビューした。監督は豊田四郎監督で、池部良の高校生との淡い初恋を描いたもの。ふっくらとしてあどけなさが残る久我は、木登りをするなど溌剌とした演技を見せている。
久我は「豊田先生、とても厳しくてね。あまりにも下手だって、何も言ってくれないの。見かねた池部良さんが『久我ちゃん、もう1回やろうよ』ってつきあってくれて。随分とお世話になりました」(「キネマ旬報」2000年12月下旬号)と回想している。15歳の久我は、配信でも観られるので興味のある方は鑑賞してほしい。
窓ガラス越しのキスシーン
翌年、黒澤明監督の「酔いどれ天使」(1948年)に出演する。終戦直後、肺を病むヤクザの三船敏郎と医者の志村喬が主人公だ。久我は同じく肺を患っているが病気と立ち向かおうとする女子学生。死に急ぐ生き方をする三船とは対照的に、未来への希望の象徴として描かれている。その姿はまぶしく輝き、久我の人気は沸騰した。
当時中学1年生だった演出家の久世光彦は、この作品を10回観たといい、久我の登場がいかに衝撃的だったかを記している。
「ぼくの街には、あんなにきれいな子はいなかった」「僕の〈戦後〉は、数メートル先をいく久我美子というお姉さんといっしょに過ごした〈戦後〉だった」(「文藝春秋」2002年2月号)
そして、久我の人気を決定づけたのが「また逢う日まで」(1950年)の出演だ。戦時下の昭和18年、召集をひかえる大学生・三郎(岡田英次)と惹かれあう画家の卵・蛍子を演じた。ここで映画史に残る名場面が撮影される。
雪が降りしきる日。蛍子の家から帰る三郎が外から窓に顔を寄せる。そこで2人はガラス越しにキスをするのだ。結婚を望む2人だが、そんな未来はやってこないかもしれない。そんな切ない思いが溢れる美しく清冽な場面だ。
厳しかった今井正監督
この作品での久我はデビュー当時と変わってほっそりとして、ノーブルで美しい。評論家の川本三郎は、空襲で命を落とす蛍子をこう書いている。
「それはあの戦争で死んでいった若い女性たちの化身のようなものだった。そして生き残った当時の日本人の多くは、『また逢う日まで』を見ながら、もし戦争で死んだ若い女性たちが生きていたらきっと久我美子のように明るい女性になったと思ったに違いない」(『君美わしく 戦後日本映画女優讃』)
久我はこの作品の撮影が一番辛かったと語っている。今井正監督が久我の演技に満足せずカメラを回さなかったのだ。
「徹夜、夜間、徹夜、夜間。一日おきに四時間しか寝られなかったんです。それが四十日間続いたんですから」(同)
しかし、後に今井監督の「にごりえ」(1953年)に出演した時、「久我君、どうしてこんなにうまくなったの? 本当によかったよ。この調子でやりなさいね」と褒められたという(「キネマ旬報」2000年11月下旬号)。
「わが青春のアイドル」第1位
これらの作品で久我に魅入られた人はとても多い。1990年に出版された『女優ベスト150 わが青春のアイドル』(文春文庫)では、各界著名人が自身の青春アイドルをアンケートで答えている。結果は高峰秀子、吉永小百合、原節子をおさえて久我が1位。しかも、得票数で2位を大きく引き離す断トツのトップだ。
久我に票を投じた人は戦後間もない頃に青春時代を送った60代が多い。現在の60代の人が、80年代アイドル映画の薬師丸ひろ子や原田知世らに熱狂したことと重なる。久我はまさしく戦後のスーパーアイドルだったのだ。
当時の若者に久我がどう映ったか、英文学者・演劇評論家の小田島雄志がこの本で語っている言葉が象徴的だ。「〈恋〉ということばは、青春時代のぼくにとっては、久我美子によってイメージされるものだった」と。
1951年、黒澤明監督の「白痴」に出演する。ドストエフスキーの小説を翻案したもので、久我は強い自我と意志を持った女性・アグラーヤである大野綾子を演じる。久我が最も好きな役のひとつだという。
この作品で共演した原節子に久我を紹介したのは写真家の秋山庄太郎だ。秋山は将来有望な新人女優をよく原邸に連れて行ったという。原は物怖じしない久我をたちまち気に入ったそうだ(秋山庄太郎『麗しの銀幕スタア』小学館)。
「にんじんくらぶ」設立と結婚
1954年、久我に大きな転機が訪れる。木下惠介監督「女の園」で共演した岸惠子と女だけのプロダクションを作りたいと意気投合。有馬稲子を誘い3人で「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立したのだ。俳優のための映画企画と他社出演の実現が目的だ。
当時は「5社協定」の時代。戦後、日活が制作を再開したために監督や俳優の引き抜き・他社出演を禁止する協定を映画5社が結んでいた。大映の看板スタア・山本富士子がこのために映画界を去ったのは有名な話である。
そんな中、トップ女優3人の独立プロダクション設立は大事件となる。しかし、久我は黒澤、木下以外にも成瀬巳喜男、溝口健二、市川崑などの名監督作品に出演していた売れっ子だった。岸、有馬も同様で映画会社は人気女優たちの行動を黙認するしかなかったのだろう。
注目だけではなく、にんじんくらぶは、映画史に残る「人間の條件」3部(1959〜1961年)などを制作し、日本映画界に確かな足跡を残すことになる。
1957年、久我は代表作のひとつと言われる「挽歌」に出演する。霧の北海道を舞台に、アマチュア劇団員が心の空虚から、妻ある中年男と恋におちるという話だ。久我はエキセントリックなヒロインを好演し、アイドル的な立場から演技派として認められるようになる。
久我美子という名の戦後
1961年には俳優の平田昭彦と結婚する。平田はダンディさの中に知性が窺える役者だった。中でも「ゴジラ」(1954年)で演じた芹沢博士役が印象深い。おしどり夫婦として知られた2人だったが、1984年、平田は病気のために56歳で亡くなる。
久我は「3時のあなた」(フジテレビ)の司会をするなど、映画界と距離を置いていたが、1989年「ゴジラVSビオランテ」に官房長官役で出演し平田の遺志を継いだ。
最後の映画出演は「川の流れのように」(2000年)だった。2024年6月9日、93歳で逝去する。
戦後の瓦礫の中で明るく生きようとする女学生、戦火の中愛する人を想う画家の卵。そんな姿に敗戦にうちひしがれていた人たちは、自身の希望を託したに違いない。彼らは「久我美子という名の戦後」を生きたのだ。
稲森浩介(いなもり・こうすけ)
映画解説者。出版社勤務時代は映画雑誌などを編集
デイリー新潮編集部
