日本サッカーのレジェンド

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 夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第70回は日本サッカー界のレジェンド、釜本邦茂さん。名選手を生んだ、秘蔵の「おふくろメシ」のエピソードを。

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サッカー界のレジェンド

 サッカーW杯北中米大会がもうすぐ始まる。日本代表は8大会連続出場となるが、日本サッカーが世界の舞台に踊り出る決定的な瞬間といえば、初のW杯出場を決めた1997年のアジア最終予選、「ジョホールバルの歓喜」でイランを下した一戦だった。あの勝利で日本サッカー界は、世界への長い長いトンネルを、ようやく抜け出すことができた。

日本サッカーのレジェンド

 もっとも、それまでの歴史の中でも、輝いた時期があった。日本がW杯に初出場した98年の仏大会から遡ること30年、銅メダルを獲得した68年のメキシコ五輪である。最大の立役者は、7得点で大会得点王に輝いた釜本邦茂だった。昨年8月、81歳で亡くなった天才ストライカーがいなければ、あの偉業を打ち立てることはできなかった。

 その釜本をインタビューしたのは17年。テーマはサッカーではなく、母親の思い出のご飯を聞く「おふくろメシ」だった。

 日本サッカー界のレジェンドに「メシ話」とはどういう了見か――と、断られるかもしれないと思ったが、当時、釜本は芸能プロに所属しており、旧知の担当者と、亡くなるまで釜本連載などを担当した記者がつないでくれて実現した。

 釜本は京都府出身。明治42年と45年生まれの両親の間に生まれた5人きょうだいの3男として育った。天才ストライカーが人知れず励んでいた練習内容にも驚かされる。サッカーを始めてからも普段の生活、例えば風呂に入っている時でも足を振って、筋力をつけていたと著書『それでも俺にパスを出せ』(講談社)で書いている。

 そして、選手として大成できたのは、当時としては高身長(179センチ)の頑強な体に生み育ててもらったことが大きかったと、本人も自覚していたようだ。同書にこんな下りがある。

〈身長が伸びないのを悩んでいると、父がかしわ(鶏)のスープをつくって飲ませてくれた。効果があったのか。(中学)2年の終わりから3年にかけて18センチも身長が伸びた。(京都の)山城高校に進んだ一年上の二村昭雄先輩が中学に遊びに来た時、私が誰か分からないくらいだった〉

「おふくろメシ」で語ったのはそのかしわのスープだった。タイトルは「天才ストライカーを育てた鶏がらのスープ」。

かしわのスープ

 きょうだいは上からテニス、卓球、バスケットボールをやるスポーツ一家だから、みんな食べ盛りで育ち盛り。ご飯は羽釜で大量に炊き、1日3食でたのはクジラ肉と青菜を炊いたものだった。

 肉といえば、まだ豚か鶏の時代。よく飲んだのが、鶏がらのスープ。元々警察官だった父が戦後、勤め先の神戸の造船所から帰宅すると、作ってくれるように母親に頼んだ。

〈近所の鶏肉店で買った鶏がらを潰して大鍋いっぱいに3、4時間、グツグツ煮出して味付けは塩だけ。それを父親と一緒にどんぶりいっぱい飲んだ〉

〈脂が浮いていて見るからに濃厚なスープにねぎを散らして。夏は冷たく冷やしてゴクゴク飲んだなぁ。骨太の頑丈な体に育ったのはあのスープのおかげかな〉

 記事に鶏がらスープの写真を掲載するため、会社の近所のスーパーで7、8羽分買ってきて、アクを取りながら数時間煮詰めた。最後は白濁してトロトロしたスープに。それを冷やして飲んでみたら、まさに濃厚という言葉しか思い浮かばない味わいで、冷えてちょっとプルプルした感じ。一気にすすったら、体に染み渡るようだった。

 ここからは、屈強な釜本がサッカーに懸ける上でエキスとなった言葉。前掲書からいくつか拾ってみる。

〈1961年の高2の夏にはデットマール・クラマーさんとの遭遇という衝撃的な出来事もあった〉

 クラマーは「日本サッカーの父」といわれ、サッカー界の礎を築いた人として知られる。そんな人物に、教えられたことを吸収できる高校時代に出会えたことは、人生の至福だった。

 クラマーは釜本の動きを見て「ホッカイドウ、クマ、ヒルネ」と、容赦ない言葉を浴びせた。「図体がでかいだけや」と漏らした言葉も聞こえたという。

 クラマーについて釜本はこう書いている。

〈常に三つのB(ボールコントロール、ブレイン、ボディーバランス)と三つのS(スピード、スタミナ、スピリッツ)の重要性を説いた人。1週間の講習もボールコントロールを中心に絶えず精度を要求された〉

 そしてこう忠告された。

〈パスを受けて前を向くのに南米の選手は1で前を向ける。欧州の選手は1、2。なのに君は1、2、3もかかっている。どうやったら速く前を向けるか。それができるようになったら一級品になれるだろう。クマだっていざという時には素早く動く〉

 当時、日本のサッカーにはボールをつなぐという考えはなく、蹴って走ってゴールを取ってこいという時代。クラマーはキックやヘディングといった基本的技術を実演しながら体系立てて教えた。それが「若い私には新鮮だった」という。

 クラマーは「ヤマトダマシイを見せてくれ」ともよく口にしたそうだ。

「サッカーは戦争なんだ」

 メキシコ五輪の前は64年の東京五輪。この時、ベスト8に進出した日本代表のキャプテンは平木隆三だった。その平木に「親善試合とタイトルマッチはものすごく違いますね」と言ったら「当たり前や……サッカーは戦争なんだ。きれいごとだけでやれるか」と返された。この言葉も深く胸に刻まれた。

 メキシコ五輪の予選が行われていた67年、日本はブラジルのパルメイラスと国内で対戦した。その試合で後に日本でプレーすることになるネルソン吉村(後に帰化して吉村大志郎に)と初めて会った。その時の会話が秀逸だ。

釜本 マーカーが1人ついていても俺にパスを出せ。2人ついていても俺に出せ。
吉村 3人ついていたら?
釜本 うーん、それでも俺にパスを出せ。

 これが前掲書のタイトルになった。吉村はげらげら笑っていたそうだ。

 釜本は26年W杯をどんな思いで天国から見るだろうか。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部