(※写真はイメージです/PIXTA)

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定年後や高齢期に、「都市部を離れて静かな場所で暮らしたい」と考える人は少なくありません。家賃の安さや自然環境、ゆったりした暮らしへの憧れから、地方移住を選ぶ高齢者もいます。しかし実際には、住み慣れた地域を離れることで、生活費や人間関係、医療アクセスなど、思わぬ負担に直面するケースもあります。

「老後は自然のある場所で」…75歳母が決めた地方移住

東京都内で暮らす会社員の綾子さん(仮名・48歳)は、母・芳江さん(仮名・75歳)から久しぶりに電話を受けた日のことを覚えています。

「やっぱり、冬は寒いねえ」

どこか元気のない声でした。

芳江さんは2年前、神奈川県内の賃貸マンションを引き払い、地方都市へ移住しました。きっかけは、家賃負担でした。

夫に先立たれて以降、芳江さんの収入は月約10万円の年金のみ。都市部での生活費は重く、綾子さんも以前から心配していたといいます。

そんな中、芳江さんは地方の中古住宅を格安で購入しました。

「畑もできるし、静かに暮らせそうだから」

築年数は古かったものの、購入費用は数百万円程度。本人は「老後にはちょうどいい」と話していました。

移住直後は楽しそうでした。近所で野菜をもらい、庭いじりをし、写真付きで綾子さんへLINEを送ってくることもありました。

「東京にいた頃より元気そうだったんです」

しかし、その変化は少しずつ現れ始めます。

最初に増えたのは、「寒い」「灯油が高い」「電気代が心配」といった言葉でした。築古住宅は断熱性が低く、冬場は暖房費が想像以上にかかっていたのです。

さらに地方では車移動が前提の地域も多く、ガソリン代や車の維持費も負担になっていきました。

総務省『家計調査(2025年)』でも、高齢単身無職世帯では光熱・水道費の負担が一定割合を占めており、物価上昇によるエネルギー費増加は家計に影響を与えています。

それでも芳江さんは、「大丈夫」と言い続けていました。綾子さんが異変に気づいたのは、帰省した日のことでした。

「通帳を開いた瞬間、固まりました」

普通預金の残高が、想像以上に減っていたのです。

「誰とも話さない日が増えた」…母が漏らした“移住後の本音”

綾子さんは驚きました。芳江さんは決して浪費家ではありません。むしろ節約家で、昔から「もったいない」が口癖の人でした。

それなのに、貯蓄は2年で大きく減っていました。理由を聞くと、芳江さんは小さく笑いました。

「寒いから、暖房を消せなかったの」

古い家は隙間風が多く、冬場は室温がなかなか上がりません。エアコンに加え、石油ストーブも毎日使っていました。

加えて、地方では近所のスーパーまで車で20分以上かかります。芳江さんは高齢になってから運転が不安になり、タクシーを使う日も増えていました。

「田舎はお金がかからないと思ってたんだけどねえ」

そう言って笑う母の姿に、綾子さんは胸が苦しくなったといいます。

しかし、問題はお金だけではありませんでした。芳江さんはぽつりとこう漏らしました。

「誰とも話さない日、増えたのよ」

近所付き合いはあるものの、都市部のように気軽に出かけられる環境ではありません。友人も遠く、気軽に会える人はいませんでした。

国土交通省『令和5年度 高齢社会に関する意識調査(高齢期の住み替えについて)』でも、高齢期の住まいでは、住宅費だけでなく、通院や買い物の利便性、人とのつながりなどを重視する人が多いことが示されています。

綾子さんは、そのとき初めて気づいたといいます。

「母は、“静かな暮らし”がしたかったんじゃなくて、“安心して暮らしたかった”んじゃないかって」

現在、芳江さんは地方での生活を続けながらも、都市部への住み替えを検討しています。ただ、年金月10万円では、以前と同じ条件で暮らすことは簡単ではありません。

「移住したこと自体を後悔してるわけじゃないの」

芳江さんはそう言います。

「でも、“安く暮らせる”と、“安心して暮らせる”は違ったのね」

老後の地方移住は、生活費を抑えられる可能性があります。一方で、住宅の断熱性能、交通手段、医療機関、人とのつながり――実際に暮らしてみなければ分からない現実もあります。

綾子さんが通帳を見て固まった日、そこに記されていたのは、単なる残高の減少だけではありませんでした。それは、母が一人で抱えていた「寒さ」と「孤独」の積み重ねでもあったのです。