「腕を切断するしかない」手術跡がハッキリ残る大けが、“猛反対された”野球選手との結婚→離婚…昭和のスター歌手・島倉千代子の“波瀾万丈”〉から続く

 占い師・細木数子(1938〜2021)の生涯をモデルにした戸田恵梨香主演ドラマ『地獄に堕ちるわよ』(Netflix)が話題となっている。細木を取り巻く人間模様が描かれる中、あらためて注目されているのが歌手・島倉千代子(1938〜2013)の存在だ。ドラマでは三浦透子が演じ、細木との蜜月関係や借金問題、訣別が描かれたが、島倉の“波瀾万丈”はそれだけではなかった。(全3回の3回目)

【画像】憔悴しきった表情で…島倉千代子さんと細木数子さんのツーショット

◆◆◆

紅白辞退の真相と「人生いろいろ」大ヒット

 1987年、島倉千代子は前年まで30回連続(紅組歌手では当時最多)で出場してきたNHKの紅白歌合戦への出場を辞退し、波紋を呼んだ。

 島倉は直後にその理由を、ファンに向けた会報誌への寄稿で切々とつづっていた。それによれば、1968年に「愛のさざなみ」で日本レコード大賞の特別賞を受賞して歌っていく自信が生まれた翌年から、いつ紅白を落選するのかという“恐怖”が始まり、それは年を追うごとに強くなるばかりで、耐えられなくなっていたという。その恐怖感から解放されたくて、30回を区切りにいったん紅白を卒業したのだった。


1999年撮影。歌手生活45年という節目の年に紫綬褒章を受け、「命ある限り歌いたい」と話す島倉千代子(当時61歳) ©時事通信社

 折しもこの年、島倉の後半生の代表曲である「人生いろいろ」をリリース、翌年にかけて大ヒットした。もともとこの曲はレコードのB面用につくられたが、レコーディング中にスタッフとこれはA面の曲だという話になり、変更されたという。また、作詞家・中山大三郎による歌詞には当初、「悩みを酒で癒す」ということが書いてあったのを、島倉は酒が飲めないので、その気持ちがわからないから詞を変えてほしいと申し出た。そうしてできたのが、「髪をみじかくしたり」というフレーズだった。

 曲ができて披露するにあたっては、歌のなかで何か変化をつけようと、振りを自分でつけることにした。鏡の前や車のなかでヘアブラシをマイク代わりに持ちながら、右を向いたり左を向いたりして、研究したという。そうして生まれたのが、歌いながら首を傾けたりする印象的な振りだった。これが山田邦子やコロッケによってバラエティ番組でモノマネされ、若い世代からも島倉が人気を集めるきっかけにもなる。

 翌1988年の日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞したときには、客席からアイドルグループ・光GENJIのファンが歌に合わせて「イロイロッ!」とのかけ声を入れてくれた。この年にはNHKから紅白歌合戦の出場を打診され、迷わず復帰を決める。作曲した浜口庫之助は前年、この歌を紅白で聴けないのは寂しいねと残念がっただけに、出場すると伝えたときには喜んでくれたという。

小林幸子に「わかんなくなった」と…

 もともとあがり症の島倉は、このときは2年ぶりの紅白ということもあり画面に映らないところでは大騒ぎだったと、後輩歌手の小林幸子が証言している。ステージに上がる直前になって「サチ、わかんなくなった、歌が……」と手を震わせながら言い出したので、出番まで小林が歌って聴かせた。《でも、いざステージに立つと何事もなかったように歌うんです。そして、戻ってきて一言、「完璧。うれしい」って》(『週刊現代』2014年11月8日号)。

「人生いろいろ」で歌手として新たに脚光を浴びる陰で、かつて一緒にのど自慢で競い合った姉が入水自殺するという出来事もあった。姉は小児麻痺で体が思うように動かせなかっただけに、60歳をすぎて悩むこともあっただろうと彼女は慮った。

 あるジャーナリストは、島倉が歌手となり、国民的ヒロインとなるにつれて、家族の絆はもろくも壊れていったと指摘する(田勢康弘『島倉千代子という人生』新潮社、1999年)。結婚でそれは決定的となり、なかでも一時は芸能界にデビューさせた弟2人とは、のちに金銭トラブルなどもあって、確執を深めたと伝えられる。

乳がん宣告、声が出なくなり…

 島倉の試練はなおも続いた。1993年、54歳のときには人間ドックの受診をきっかけに乳がんが見つかる。宣告されたときにはショックで、自分の人生はこれで終わるのだと思い、家のなかを整理して中学生のときからつけていた日記も焼き捨てたほどだった。それでも執刀医にすべてを任せて手術を受けた。無事に終わり、麻酔から覚めて最初に思ったのは「歌をうたいたい」ということだったという。

 入院中に声が出なくなったので、院長の許可を得て会議室を借り、カラオケを持ち込んで歌の練習も始める。それがしだいにほかの患者の知るところとなり、聴かせてほしいと頼まれ、「パジャマ・コンサート」を開いた。歌ったのは、がんがわかってレコーディングが延期になりかけたところを、病気と闘うため入院前に録っておきたいと島倉が懇願して録音した「女の夢灯り」という曲だった。

 病室にはポスターを貼って、それを目安に毎日、手を伸ばすリハビリをした。一番上まで手が届いたときには、自分はまだリハビリさえすれば手が動くんだと気づく。不思議なことに、がんの手術をしたら、幼いころの大けがで失われた左手の感覚が戻ったという。

 退院して1ヵ月後には全国巡業に出ている。そこには借金を返さないといけない事情もあったらしい。その後も放射線治療を受け、がん再発の可能性は低いという目安となる5年を迎えられた。だが、この間、手術や治療の影響もあり、声がだんだん出なくなっていく。59歳になった1997年にステージで歌っていたところ、あきらかに声の調子がおかしいと感じた。歌の心を伝える情感がまるでないのだ。こんな味もそっけもない歌を客に聴かせるくらいなら、歌手をやめるべきだと絶望した彼女は、その日、家に帰ると一人泣き続けたという。

 それでも翌日には気持ちを切り替え、もしこれで歌手として終わるのなら、最後に何かできることはないかと考え、ボイストレーニングを受け始めた。それまでは、若い頃に音楽高校でクラシックの発声法を勉強したというプライドもあり、ボイストレーニングを勧められても頑なに拒んできたが、そのプライドをかなぐり捨てて再起をかけたのである。そのかいあって、やがて芯のある声が戻ってきた。

スタッフが金を持ち逃げ

 しかし、60代に入って、またしても声が出なくなるほどのショックを受ける事件に見舞われる。翌年に歌手生活50周年を控えた2003年、それまでずっと信頼していたスタッフから仕事のことで罵詈雑言ともいえる言葉を浴びせられ、そればかりかコンサートの出演料を持ち逃げされてしまったのだ。おかげで島倉は家を処分する覚悟まで決めなければならなかった。声が出なくなったのはそのストレスからだった。

 すでに加齢から体力が落ちていたところへ精神的なショックが加わり、しばらくは立ち直れずにいた。だが、やがて、徹底的に何かをやってそれでもだめだったら歌手をやめるしかないと、このときも覚悟を決め、ボイストレーニングはもとより、日舞と洋舞にも初めて本格的に取り組んだ。これが楽しくて、コンサートで披露しようと思いつく。体を動かすことで気持ちがストレスから離れ、しだいに声も少しずつ戻ってきた。

「涙を流しながら、笑って生きていこう」

 こうして迎えた2004年10月の50周年記念リサイタルでは「これで完全」と思える声が戻ってきたという。島倉いわくその理由は《人生も歌も50%で生きていこう。涙を流してもいい。涙を流しながら、笑って生きていこう。そう決めたんです。不思議ですね。途端に、ストレスで飛んだ声が戻ってきた》(『ゆうゆう』2005年3月号)。彼女は完璧主義者ゆえ、自分の思いどおりにいかないたびに落胆し、自縄自縛に陥っていたきらいがあった。それが出す力を半分に抑えたおかげで精神的に楽になったのだろう、調子を取り戻したようだ。

 50周年を機に、応援してくれる人たちへの感謝の気持ちから、日本各地をまわって人々の顔を見ながら歌いたいと思い立つ。それまで生バンドでしか歌わないという姿勢を貫いてきたが、人里離れた場所までバンドを引き連れていくのはとても無理とあって、こだわりを捨てて、カラオケも採用しながら各地を巡る決心をした。

 2004年には、NHKが紅白歌合戦の出場歌手に関する視聴者世論調査を紅組と白組それぞれ上位15組ずつ発表、島倉はaikoとBoAに挟まれて14位に入り、本人も大喜びで8年ぶり35回目の出場を果たす。結果的に最後となった同年の紅白では「人生いろいろ」を歌った。このころの島倉は歌番組だけでなく、テレビのクイズ番組やバラエティにも引っ張りだこで、突飛な発想をする天然キャラで人気を集めていた。

 かねてより「私は演歌歌手じゃないと思っている」と言っていた島倉は、ポップスやフォーク畑のミュージシャンにも積極的に楽曲提供を依頼している。1995年には小田和正が作曲、詞は島倉と共作して「あの頃にとどけ」をリリース、同年のアルバム『LOVE SONG』には小田のほか南こうせつ、吉田拓郎、平松愛理、根本要、奥居香(現・岸谷香)らが作曲者に名を連ねた。2003年から06年にかけてはシンガーソングライターの山崎ハコがシングル曲を連作している。

70歳に入って初めた勉強

 島倉は年齢を重ねるにしたがい、それまでに築き上げたキャリアやイメージに縛られることなく、時代に合わせて少しずつ変化をすることを楽しんでいたようだ。70歳を前にした2007年からは簿記など経理について勉強を始めている。それまでお金のことはわからないからといっさい人任せにしてきたのを、友人から叱られたのがきっかけだという。同年5月に事務所を解散して以降は、経理に関することを含めて島倉自らチェックするようになり、それまで自分の預金通帳を見たことすらなかったのが、銀行のATMへ足を運んで通帳記入や送金を生まれて初めて経験した。

 ATMの操作を間違え、後ろに並んでいる人にも申し訳なくて落胆しながらも、やり直すうちにだんだん慣れていったらしい。そうした経験から《強くなりましたよ。あきらめなくなりましたもの。わからないなら、わかるまで調べる。あきらめない。私、なんだか、生まれ変わったような気持ちなんです》と当時のインタビューでうれしそうに語っていた(『ゆうゆう』2008年5月号)。

 とはいえ、別の取材記事では《いつも首の皮一枚の状態は変わっていません(笑)》とも口にしていた(『週刊文春』2009年8月13・20日号)。実際、このあと2013年に75歳で亡くなるまでの彼女について調べてみると、またしても金銭トラブルに巻き込まれていたのだろうかと臆測させるような話もちらほら見つかる。

 晩年は肝臓がんでひそかに闘病を続けながら活動を続けていた。遺作となった「からたちの小径」は亡くなる3日前、ディレクターにさえ知らされないまま、作曲した南こうせつらが機材を自宅に持ち込んでレコーディングが行われた。このとき島倉は椅子に座ったまま、しかも人から背中を支えられながら歌ったと伝えられる。

 何度となく苦境に立たされ、財産を失い、ときには死ぬことまで考えるほど追い詰められながらも、そのたびに島倉は立ち直り、歌い続けてきた。最後のレコーディングはそんな人生を象徴するようだ。そのとき彼女の胸中にあったのは、自分には歌う以外にないという一念であったのだろう。幼い頃に大けがを負って心を閉ざしながらも、歌によって救われた彼女はそれに報いたい、ただその思いで歌い続けてきたような気がしてならない。

■本文中に挙げた以外の参考書籍
島倉千代子『花のいのち』(みき書房、1983年)
島倉千代子『島倉家 これが私の遺言』(文芸社、2005年)

(近藤 正高)