「まるで血の海」有名歌舞伎俳優の自宅から見つかったのは5人の遺体⋯2歳児まで殺した「大量殺人犯」は“被害者のすぐ側”にいた(昭和21年の事件)
「まるで血の海」――。
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戦後間もない東京で、歌舞伎界の名優の自宅が凄惨な現場と化した。一家5人が殺害され、2歳の幼児までもが命を奪われるという前代未聞の事件だった。
5人を殺害した犯人とは? 鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)

写真はイメージ ©getty
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歌舞伎役者一家5人を殺害
1946年(昭和21年)3月、歌舞伎役者の十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害された。まもなく同居していた作家見習いの男が逮捕され、「食べ物の恨み」が動機と供述したが、事件から77年後の2023年(令和5年)、生き残った遺族が真の犯行理由は別にあることを明かした。
「仁左衛門」は江戸時代から続く歌舞伎界の名跡で、関西歌舞伎の特徴である色気や気品あふれる芸風で知られる(2024年10月現在は、十五代目片岡仁左衛門=本名・片岡孝夫が名を継いでいる。屋号は「松嶋屋」)。
その十二代目に当たる片岡仁左衛門は1882年(明治15年)、十代目片岡仁左衛門の養子として東京府浅草区(現・台東区)に生まれ、3歳のとき本名の片岡東吉で千歳座(現在の明治座)で初舞台を踏んだ。
以後、関西を中心に男役も女役も演じられる芸の幅が広い役者として活躍したが、50歳を過ぎたころ、女形が不足していた東京の歌舞伎界に招かれ上京。1936年(昭和11年)に十二代目を襲名し、十五代目市村羽左衛門(1874−1945)の相方を多く務めた。
私生活では妻むつとの間に1910年(明治43年)に長男一(後の十三代目片岡我童。1993年没)、1918年(大正7年)に次男義直(後の二代目市村吉五郎。2010年没)、1926年(大正15年)に三男大輔(後の六代目片岡芦燕。2011年没)を授かったが、1937年ごろから39歳も年下の日活映画の女優・小町とし子(1921年生。本名・吉田登志子。1940年引退)と不倫関係となり、1941年に正妻のむつが病死したため、1942年に周囲の反対を押し切り登志子さんと再婚。同年、娘の照江、翌年には四男三郎を授かった。
事件が起きるのはその3年後のことである。
自宅から見つかったのは⋯
1946年3月16日午前9時ごろ、東京都渋谷区千駄ヶ谷にある仁左衛門宅の隣人が回覧板を届けに同宅を訪れた。が、戸が閉まっていたため隣人はそのまま帰宅。2時間後の11時ごろ、神田小川町に住む登志子の母親・吉田かよ子(当時50歳)が訪ねてきたときもやはり戸はしまっており、中からの応答はなかった。
不審に思った母親が近所の住民に立ち会ってもらったうえで、開いていた裏手の雨戸から室内に入り驚愕の光景を目の当たりにする。
八畳の居間で仁左衛門(同65歳)、登志子夫人(同26歳)、三郎くん(同2歳)の親子3人(長男から三男はすでに独立。娘の照江さんは母方の祖母の家にたまたま外泊していた)のほか、同家の子守り・岸本まき子さん(同12歳)、同家使用人の榊田はるさん(同69歳)が血の海の中で殺害されていたのだ。
通報を受け駆けつけた警察は現場の惨状に絶句する。全員が頭部と顔の上部を激しく損傷しており、部屋に飾られていたひな壇と唐紙まで凶行の返り血を浴び朱に染まっていた。特に登志子夫人は滅多打ちにされており、鼻柱から大量の血が噴出していた。
警察は現場の状況から犯人がまず八畳間で仁左衛門親子3人を殺した後、逃げ回る岸本さん、榊田さんを別室四畳間で殺害したうえ、2人の死体を八畳間に運んだものと推定。
家の庭先に血まみれの薪まき割り用の斧が放置されていたことから、これが犯行に使われた凶器と断定する。
また、前々日に払い出した郵便貯金600円(現在の貨幣価値で約2万4千円)が失くなっていることも判明。
犯人の正体は⋯
捜査当局は2歳の幼児まで容赦なく殺害している残忍さから怨恨が動機と睨むとともに、前日まで仁左衛門家に同居していた、岸本まき子さんの実兄・飯田利明(同22歳)の姿がないことから、飯田を重要容疑者として、その日のうちに全国に指名手配する。
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事件から数年後、被害者家族のもとに獄中の飯田から詫び状が届き、そこには「弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした。申し訳なかった」と書かれていた。彼の真の動機は何だったのか――
〈「食べ物の恨みは嘘だった」有名歌舞伎俳優一家5人を殺害⋯22歳・作家見習いの男の『真の殺害動機』(昭和21年の事件)〉へ続く
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
