「お医者さんごっこよ」麦畑で幼女の下腹部にイタズラしたことも⋯母親から「わいせつ行為」を許され続けた小6男子【恐るべきその後】(昭和46年の事件)〉から続く

 小学生の頃から性犯罪を繰り返しながら、更生することなく36歳を迎えた男。事業の失敗をきっかけに、その欲望はついに制御を失い、やがて8人もの女性を強姦・殺害する凶悪犯へと転落していく――。

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 昭和46年に起きた連続強姦殺人事件の顛末を、鉄人社の新刊『高度経済成長期の日本で起きた37の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)


写真はイメージ ©getty

強姦事件を起こした息子を母親は励ました

 大学の角帽に開襟シャツ、黒ズボンという格好で大学生になりすまし、伊勢崎市に住むA子さん(当時17歳)に声をかけ公園のベンチで雑談をしていた際、突然、彼女をベンチの上に押し倒し、顔面を殴り首を押さえつけて強姦。

 すぐに逮捕されたが、初犯ということで懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける。このとき、母親は「女は魔物と言うからの。女に経験のない若いボクちゃんが騙されるんも、無理はないて。これからはせいぜい気をつけるこったや」と励ましたというから呆れる。

 同年12月26日、今度は前橋市内のバス停にいたB子さん(同17歳)に「送ってやる」と言って、親から買ってもらったバイクに乗せ、強姦目的で市内の松林内に連れ込む。

 女性が必死に抵抗したため目的は達成できなかったが、逮捕後の裁判では執行猶予中の刑期を加算した懲役3年6ヶ月の判決が下り、長野県の松本刑務所に収監された。

 出所から5ヶ月後の1960年4月、高崎市の喫茶店で知り合った前橋市在住の女子大生C子さん(同20歳)に声をかけ、当時盛り上がっていた日米安保闘争の話題をぶつける。相手が議論に乗ってきたため自宅に誘い、話の途中でいきなり飛びかかった。

 が、C子さんが大声を出したため両親が駆けつけ、結局、示談に持ち込んだ。

21歳女性と結婚したけれど⋯

 1962年5月、27歳のとき、1年間の交際を経て渋川市在住のH子さん(同21歳)と結婚。翌年に長男が誕生し、その翌年には自宅を改装して牛乳販売店を開業、1965年4月に長女を授かる。が、同年6月3日、自分が配達した牛乳の空き瓶2本を盗もうとした少年を発見。

 少年の兄である牛乳販売業者の自宅に押しかけ脅迫して2万円を取り、さらに7万3千円の示談書を書かせたため、恐喝及び恐喝未遂罪で、懲役1年、執行猶予3年の処分を受ける。

 妻はこのときの裁判で、夫に前科があることを初めて知った。

タガが外れた「男の欲望」

 この一件で店の売り上げは激減、仕事に対するやる気を失う一方、しばらく鳴りを潜めていたレイプ願望が再び顔を出し、実行に移す。新車の「いすず・ベレット」を購入、車内にベレー帽、原稿用紙、詩集などを置き、作家を装い「送ってやる」と声をかけるのが常套手段で、1966年12月、安中市で女子高生のD子さん(同16歳)を車に乗せ、車内で体を押さえながら強姦。

 2ヶ月後の1967年2月には、高崎市内のバス停で、以前から顔見知りだった前橋市に住む女子短大生のE子さん(同20歳)を車で同市内の烏川河原に連れて行き、車内で首を絞めつけ蹂躙した。

 が、E子さんの通報により逮捕。裁判で懲役4年6ヶ月の実刑判決を受け、府中刑務所に入所する。仮釈放を受けたのが1971年3月。大久保は36歳になっており、ここから大量殺人の幕が切って落とされる。

 ちなみに妻子は服役中、渋川市の実家に身を寄せており、二度と大久保のもとには戻らなかった。

最初の殺人

 出所後、室内装飾品の販売を始めたいからと両親からお金を出してもらい、新車の「マツダ・ファミリアロータリークーペ」を購入。

 画家や高校の教師を装うための小道具として、助手席に作家・埴谷雄高の著書『死霊』、横文字が目立つ電気工学関係の専門書、絵筆などを置き“狩り”に出る。

 大久保は1日平均170キロメートルもの距離を車で走り、若い女性に片っ端から「乗せてやる」「送ってやる」と声をかけた。逮捕されるまでの1ヶ月半でナンパしたのは約150人(確認できているのは127人)、車に乗った女性約30人のうち10数人と肉体関係を持ったが、この中の8人が無惨に殺される。

 最初に犠牲となったのは群馬県多野郡在住の高校3年生、津田美也子さん(同17歳)だ。大久保は1971年3月25日に高崎駅の待合室で彼女に「画家ですが、絵のモデルになってくれませんか」と声をかけドライブに誘っており、その6日後の31日18時40分ごろ、高崎線の新町駅前のバス停で偶然、彼女を見かけたため再びドライブに誘った。

 あっさり応じ助手席に乗った彼女と前橋市内の名曲喫茶「田園」へ行った後、自分のアトリエを見せると榛名山へ。林道のゴミ捨て場に車を停め、21時半ごろ車内で関係を持った。

 その後、大久保の運転免許証から名前や年齢が嘘で、アトリエのことも嘘だとわかると、津田さんは「あんたはひどい人だ。私の兄は検察官をやっている、一緒に警察へ行ってくれ」と激怒。検事ではなく検察官という言葉に信憑性を感じた大久保は、その場で彼女の首を絞めて殺害し、自身で掘った60センチの穴に遺体を埋め、現場から逃走する。

第2〜3の殺人

 翌月4月6日、ウエイトレスの老川美枝子さん(同17歳)が殺害される。彼女と会うのも2回目で、この日18時10分ごろ、北高崎駅で車に乗せモーテルで関係を持った。大久保が「今度いつ会える?」と聞いたところ、「いつごろかわからない。その前に誰か訪ねて行くよ。私には旦那がいるんだよ。警察だよ」と言ったため、モーテルを出て高崎市の「八幡工業団地」造成用地内の工事用道路に向かう。

 そこで車を停め、右腕で首を絞めて殺害。遺体は新設道路の側溝工事のために掘ってあった穴の中に投げ込んだ。

 県庁臨時職員の井田千恵子さん(同19歳)と前橋市の眼科医院の前で会ったのが、それから11日後の同月17日18時ごろ。彼女と会うのは5回目で、それまで大久保は、美大卒の「渡辺哉一」と偽名を使い、29歳の中学教師と言っていた。

 が、向かった軽井沢で車で関係を持った後、彼女が思わぬことを口にする。本名が大久保清であること、刑務所に入っていたこと、妻子のあること、教員ではないこと。井田さんは大久保のことが気になり近所で調べていた。

 隠していた正体を見破られた大久保に選択肢はなく、23時半ごろ、老川さんを手にかけたときと同様、八幡工業団地造成用地内の工事用道路に車を停め、タオルで首を絞めて殺害。遺体も同じく側溝工事用の穴の中に投棄した。

なぜ女性たちを騙せたのか?

 以降も犯行は続き、4月18日には伊勢崎市の高校生、川端成子さん(同17歳)、27日は前橋市の高校生、佐藤明美さん(同16歳)、5月3日に伊勢崎市に住む電電公社(現・NTT)職員の川保和代さん(同18歳)、9日に藤岡市の会社事務員の竹村礼子さん(同21歳)、10日に前橋市に住む家事手伝いの鷹觜直子さん(同21歳)が強姦後に絞殺、道路や畑に掘った穴に遺体を捨てられる。

 まさに鬼畜の所業だが、特筆すべきは、犠牲者の大半が見知らぬ相手にいきなり襲われたのではなく、それまで少なくとも1回、多い場合は7回も大久保に会っていた点だ。皆、スポーツカーに乗ったインテリ風で、話題も豊富な男に最初は油断したようだ。

 そして、犠牲者が身内に警察・検察関係者がいることを口にしたことが殺害の直接の動機になっている点にも注目したい。後の大久保の供述によれば、8人のうち5人に警察官や検察官の身内がおり、他の2人は大久保が刑務所帰りであることを事前に知っていたという。

 逮捕は偶然だった。最後の犠牲者の遺体が発見された1971年5月10日午前1時半ごろ、藤岡警察署に1本の電話が入った。竹村を名乗る男性は「私の妹の礼子が、昨日夕方6時ごろ出かけたまま、この時間になっても帰らないのですが、市内のどこかで、女の子が被害に遭った交通事故はなかったでしょうか」と問い合わせてきた。

 当直員は「そのような事故は発生していません」と返答。その後、管内の派出所勤務員に手配してパトカーで管内警らを実施、2時間捜索したものの礼子さんは見つからなかった。

 一方、電話をした兄がその後、一睡もせず必死になって藤岡市内の捜索を続けていたところ、10日午前6時半ころ、市内宮元町の多野信用金庫の駐車場の隅に妹・礼子さんが乗っていた自転車が放置されているのを発見した。不審に感じた兄がしばらく見張っていると、午前9時半ころ、マツダの車を運転してきた男が両手に軍手をはめて、自転車に近寄り指紋を消すような動作を始めた。大久保清だった。

ついに逮捕

 怪しいと思った兄は「失礼ですが、この自転車はあなたのですか」と声をかける。対して大久保は相手のジャンパーに〈竹村製作所〉とあるのを見て「待っている人が来たから」と意味不明なことを言って慌てて立ち去ってしまう。

 兄は男の乗ってきた車のナンバーを覚えており、すぐに警察に通報。午前10時20分、県警交通指導課がナンバーを照会して、マツダの「群55な285」のロータリークーペの所有者が大久保清であることを確認する。

 群馬県警はさっそく、大久保の自宅に捜査員を派遣したが、本人の姿はなく、両親に聞いても要領を得ない。そこで捜査員150人が70台の車に分乗し、県内18ヶ所を捜索。

 13日18時半ころ、警察とは別の民間捜索隊が前橋市内で大久保を見つけ、前橋署に身柄を引き渡した。

 強姦致傷罪・強姦罪・殺人罪・死体遺棄罪で起訴された大久保の裁判は1971年10月25日より前橋地裁で始まった。大久保は起訴事実を全て認め、「何も言うことはありません」と供述。

 2年後の1973年2月22日に同地裁は死刑を言い渡し、大久保が期限までに控訴しなかったため刑が確定する。

 身柄を東京拘置所に移送された大久保は同年10月、獄中から『訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記』を刊行し、その中で〈自分は「自己を失い、ただ性欲の野獣となった」ように見られているが、そのことはどうでもよい。私が犯された罪がいかに重大か知る人はいない〉という被害者意識とも取れる文章を記した。

失禁しながら刑場へ⋯

 死刑執行は1976年1月22日。氷点下3.9度というこの冬一番の冷え込みを記録したこの日の朝、独居房の鉄扉が開き、警備隊員たちに取り囲まれた拘置所保安課長が「番号と名前、生年月日を言いなさい」と言うと、大久保は初めて刑の執行を理解し、へなへなと床にへたり込んだ。

 警備隊員に引きずられ、失禁しながら刑場へ。拘置所の所長が「これでいよいよお別れだね」と告げると大久保は顔面を紅潮させ、体をわなわなと震わせ、その場で腰を抜かしてしまう。「何か言い残すことはないか。あったら今ここで何でも言いなさい」という言葉にも答えられず、弱々しく首を横に振るだけだった。

 両脇を刑務官に支えられて立ち上がり、読経が流れるなか、絞首刑執行(享年41)。

 死刑確定から2年10ヶ月後の執行は当時、一般死刑囚と比較しても異例の速さだった。

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 男は小学6年のときから性犯罪を繰り返していた。幼女を麦畑に連れ込んで行ったあまりにひどい性犯罪とは⋯⋯

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(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))