信長・家康と長政・義景が激しく激突「血で赤く染まった」姉川の戦いだが、実は命運を懸けるような決戦ではなかった?むしろ注目すべき点は…本郷和人が『豊臣兄弟!』を解説
<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「姉川の戦い」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!
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長政はなぜ裏切ったのか
姉川の戦い(1570年)は、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍がぶつかった戦いとしてよく知られています。
ドラマでも、激しい合戦の様子が描かれ、血に赤く染まった姉川を見てぼう然と立ちつくす藤吉郎と小一郎の姿が印象的でした。
でもそれは決して、戦国大名家の命運を懸けた「決戦」、大会戦ではありませんでした。そのあたりを解説しましょう。
その前に、細かい点を二つ。まず一つは、浅井長政がなぜ信長を裏切ったのか、という点です。
一般には「浅井家は昔から朝倉家と結びつきが強かったから」と説明されます。
確かに両家は関係を持っているようですが、浅井家が深く恩義に感じるような、決定的な出来事があったかというと、それは見当たりません。
「誘惑」に負けて謀反を…
むしろ注目したいのは、当時の群雄割拠の状況です。

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信長は越前の朝倉を攻めるために北へ進み、近江はほとんど無防備な状態になっていました。
しかも浅井を完全に味方だと思っていたのです。
戦国大名の立場から見れば、これは「背後を突く絶好の機会」。そう考えると、浅井の離反は、単なる義理や恩義の問題ではなく、「今ならあの強大な信長に勝てるかもしれない。運が良ければ滅ぼせるかもしれない」という誘惑に負けた結果でしょう。
現実的な判断だった可能性が高いのではないでしょうか。
朝倉との関係があったとすると、朝倉の協力を得やすい条件が既にあったので、決断に踏み切りやすかった、と見られます。
戦闘に参加した浅井軍は三千前後
二つ目ですが、姉川の戦いなど、浅井軍の規模について。
史料では浅井軍は五千ほどとされることが多いのですが、これをそのまま受け取るのは少し危険です。
浅井の領地規模(後に秀吉が褒美として受け取って、それが10万石前後)から考えると、実際に戦闘に参加した兵は三千前後と見るのが現実的でしょう。
五千という数字は、雑兵や補給要員まで含めた総数、あるいはやや誇張された数字と考えられます。
戦いを引き起こしたのは織田か、浅井か?
さて、いよいよこの戦いをどう評価するかですが、ここで大事なのは「何のために戦ったのか」を考えることです。
戦いには莫大な費用がかかります。目的のない戦いはありません。
だから合戦のリアルを見ていかねばならない。
第一に戦いを引き起こしたのは織田なのか、浅井サイドなのか。
第二にその目的は何か。
ぼくは合戦を欲したのは、信長であると解釈します。
信長にとっての最大の理想は、浅井を滅ぼすことでした。
しかし、これは一度の戦いで達成できる目標ではありません。
より現実的な目的は、別のところにありました。それは、「岐阜と京都を結ぶルートの確保」です。
京都と岐阜の最短ルートを確保するため
信長は京都で将軍足利義昭を支える立場にありましたから、京都との往来は生命線です。
岐阜から最短で、京都に行きたい。
ところが浅井勢が敵に回ったことで、近江北部――現在の米原や彦根あたり――が不安定になり、最短ルートが危険なものになりました。
この状態は信長にとって非常に厳しい。
そこで必要だったのは、浅井勢を南下させないこと、そして交通の要所を押さえることでした。
そして姉川の戦いの結果、信長・家康側は野戦で勝利し、小谷城には手が出なかったものの、小谷城にほど近い、横山城を確保します。
この城には木下藤吉郎が駐屯し、浅井家の動きを絶えず監視しました。
また浅井勢の南下を抑え込むことが可能になりました。
京都と岐阜を結ぶ動脈を、少なくとも部分的には取り戻したのです。
「流れを変えた戦い」
この点を踏まえると、姉川の戦いは「浅井を滅ぼせなかったから、不完全な勝利」ということにはなりません。
むしろ、「必要だった目的=交通路の確保と敵の封じ込め」は十分に達成されている、という意味で、信長方の勝利、と判定することができます。
もっとも、この戦いで戦争が終わったわけではありません。浅井も朝倉もその後もしばらく抵抗を続け、最終的な決着は数年後に持ち越されます。
そう考えると、姉川の戦いは「決戦」というよりも、「流れを変えた戦い」と言うべきでしょう。
信長はここで一気にすべてを片づけたのではなく、交通路を押さえ、敵の動きを制限し、じわじわと有利な状況を作っていきました。
戦国時代の戦いは、一度の勝負で終わるものではありません。どこを押さえ、何を守り、どう相手を縛るか。その積み重ねの中で、勝敗は決まっていきます。
姉川の戦いは、まさにそうした戦国の現実をよく示した一戦だったと言えるでしょう。
