中村梅玉「9歳の時〈来年から河村家の養子になって、舞台に出るんだよ〉と実父に言われ。稽古は厳しかったけれど、舞台に出るのは面白く」
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第50回は歌舞伎役者の中村梅玉さん。9歳の時に、子どもが生まれなかった歌右衛門家の養子となった梅玉さん。歌右衛門さんは、普段は優しいけれど稽古は厳しかったそうで――。(撮影:岡本隆史)
* * * * * * *
「養子になって、舞台に出るんだよ」
《白皙(はくせき)の貴公子》のイメージを今も保ち続けている二枚目役者。2022年には人間国宝(重要無形文化財保持者)となった。昭和を代表する名優、真女方(まおんながた)の六代目中村歌右衛門の養子として、その薫陶を受けた結果と言える。
『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官、『御存鈴ヶ森』の白井権八、『頼朝の死』の将軍頼家などが当たり役。この写真撮影中もおっとりとして静かに立つ姿は、まるで『勧進帳』の義経の舞台姿を見るようだ。
聞けばこの義経が「唯一、父・歌右衛門から手取り足取り教わった役」とのこと。
――第1の大きな転機は9歳の時、小学校4年だったかな。中村歌右衛門の養子になったことですね。将来進むべき道がまずここで決定してしまったわけですから。
歌右衛門の妻つる子が、実父の妹。当時、阿佐谷に住んでいて、僕は子どもの頃からよく遊びに行った記憶があります。父歌右衛門は大の犬好きで、その頃はスピッツのクマというのがいて、僕は父のことを「ワンワンおじちゃん」と言ってました。
そのうち、歌右衛門家に子どもが生まれなかったもので、「来年から河村家の養子になって、舞台に出るんだよ」と実父に言われた。それが1955年の秋のことで、もう翌年の1月には初舞台でした。
2歳下の弟、今の魁春が一緒で、加賀屋福之助・橋之助を名乗って「蜘蛛の拍子舞」で披露していただきました。
われわれ兄弟は小坊主福才と翫才で、劇中口上となるんですが、初代猿翁のおじさんや七代目三津五郎のおじさん、初代白鸚のおじさん、三代目時蔵のおじさん、もちろん父とか、すごいメンバーですよ。
当時十代前半だった、今の白鸚さんやその弟の吉右衛門さん、二代目猿翁さんとかがみんな女方の腰元で出ていて、花道入る時に白鸚さんが、齢の離れていない僕をおぶってくれて。今では考えられないですよね。
そのすぐ後に、父の出し物で『伽羅先代萩』の千松とか「重の井子別れ」(『恋女房染分手綱』)の三吉とか、子役の中では結構な大役をやらせていただきました。
当時の雑誌に、若い歌右衛門さんがとても嬉しそうに「息子二人」と炬燵にいるグラビアが載っていた。
――ええ。しかし、普段は優しかったけれど、稽古となると厳しくて、弟は耐え切れずに実家へ逃げ帰ったりもしましたよ。(笑)
河村の母は、僕たちの初舞台の時は歌舞伎座に出入りしてくれたりはしましたけど、病弱でしたからもうほとんど2階のベッドにいて。時折、我々兄弟がそっと寝室に忍び込んで、驚かせたりしたことを覚えています。
でも母はその2年後にはもう亡くなってしまう。家の中のことは最初から実家の祖母が同居して取り仕切っていましたし、実母は天ぷらを揚げるのが上手で、父の歌右衛門も「まあ、姉さんの天ぷらは本当においしいね」ってよく言ってました。
実家との関係が切れたわけではありませんから、寂しかったりつらかったりはしませんでしたね。
でも小学校の放課後には踊りや鳴り物の稽古事を何軒も掛け持ちさせられたので、学校の友だちと遊べなかったのがつらかったです。マア、稽古はずいぶんサボったけどね(笑)。
舞台に出ることは好きでしたよ。お客さんに手を叩かれて、もうこんな面白いことはないな、って感じでした。
大成駒と言われて絶対の権威を誇った歌右衛門は、歌舞伎役者の品格を重んじ、テレビやCMへの出演を許さなかったと聞く。
――そうなんです。僕が十代後半くらいの時にいわゆる第1次三之助ブームというのが起きて、菊之助、新之助、辰之助という。つまり七代目菊五郎さんと、亡くなった十二代目團十郎さんと、早逝した初代辰之助さんですね。
この3人がマスコミに出てすごい人気者になって、当時渋谷の東横ホールなんかに出て、女の子たちに出待ちされたりしてるのなんか見ると、もう羨ましくてね(笑)。
でも父はあくまでも歌舞伎一筋に行かなくてはダメという教育方針でしたからね。父自身も新派には出ましたけど、映像には出ておりません。
ですから僕も新派の舞台にはかなり出ておりますよ。『滝の白糸』とか『日本橋』とかに。
<後編につづく>
