『ガンニバル』シーズン2 ©2025 Disney

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 この10年で、日本産の連続ドラマを巡る環境は大きく変わった。従来のテレビ局や携帯電話の各キャリア主導のものだけでなく、外資系の動画配信サービスによるローカライズ作品が続々と台頭し、しのぎを削る展開に。コンテンツ数が充実する一方で海外作品も含めた可処分時間の奪い合いになり、審美眼が肥えた視聴者の見る目は厳しくなった。いまや、「著名な俳優が出演」や「人気監督の最新作」「大ヒット原作」だけではシェアを獲得できず、もっというとただ面白いだけでは力不足。話が面白い/クオリティが高いのは“当然”で、強力な+αを提示できた作品だけが食うか食われるかの生存競争を制するに至る――。一定のクオリティに到達していてもパンチが足りずに淘汰された作品は数え切れず、たとえシーズン1が成功しても続編で急落する事態も往々にしてありうる。そんな超シビアな環境下で、ディズニープラス スター オリジナルシリーズ『ガンニバル』は偉業を成し遂げた。2025年3月19日にシーズン2が配信されるや、ディズニープラスにおいて世界中で最も視聴された日本発の実写作品(※配信開始から4週間の視聴数に基づく)となった 。

参考:笠松将×吉原光夫は“後藤家”をいかに作り上げたのか 『ガンニバル』への猛烈な愛を明かす

 シーズン1から2年のブランクを経ての配信となったが、見事に前作超えの新記録を打ち立てた『ガンニバル』シーズン2。前シーズンから数年後の物語、といったように時間が空くタイプの連続ドラマ新シーズンと異なり、本作はシーズン2と1の間に切れ間がない。シーズン1最終話の直後からシーズン2第1話が始まるため、ビギナーには少々ハードルが高そうななかでの船出となった。そうしたハンディキャップを背負った上でのこの結果は、数字以上に意義のあるものではないか。シーズン1の衝撃的な幕切れに「続きが気になる……観たい!」と思っていた視聴者は多いだろうが、トレンドの移り変わるスピードが異常に激しい昨今、2年も経てば興味が薄れてしまうのは無理からぬこと。最も視聴された日本初の実写作品になったのは、その熱を再着火して既存ファンを呼び戻すだけでなく、新規ファンをも獲得できている事実の証明でもある。ではなぜ、それほどまでの渦を生み出せたのか? その要因の一つは、シーズン1の成功に満足せず、進化し続ける――本作風に言うならば“狂い続ける”姿勢だろう。

 『ガンニバル』シーズン2で描かれる内容は、大きく分けて2つ。「村民が人を喰っている」と噂される供花村に赴任してきた警官・大悟(柳楽優弥)とその地に君臨する後藤家の最終決戦、そして後藤家誕生の秘密だ。シーズン2の内訳は現代パートが第1~4話、後藤家の先代当主・銀(倍賞美津子)の若き日(恒松祐里)を描く過去パートが第5~6話、そして現代パートに再び合流し、第7~8話で大団円を迎える。物語の構成でいえば「序破急」の破を二分割してシーズン1と2に配分した形、あるいは「起承転結」の「起承」がシーズン1、「転結」がシーズン2という振り分けだろうか。前述したように初心者が入り込みやすいイントロダクションやチュートリアルがない代わりに、地ならしは済んでいるため冒頭からフルスロットルで畳みかけることが可能に。この特性を最大限に活かし、『ガンニバル』シーズン2は第1話からこれでもかと攻めた描写を各バトルシーンに盛り込んで視聴者の度肝を抜いた。

 まずは大悟と人知を超えた“あの人(澤井一希)”の対決だ。現人神としてあがめられる“あの人”は異常に長い手足と巨躯を誇り、怪力と素早さを兼ね備えた最強の存在。元来、こうしたクリーチャー的な存在は一歩間違うと視聴者が冷めかねないため身体の一部しか見せずに恐怖を煽ったり「速すぎて全貌を視認できない」「夜行性」等々の処理をするものだが、『ガンニバル』シーズン2ではこけおどしの演出は行わず、昼夜問わず“あの人”が暴れ回る。大悟と取っ組み合い、森の中でチェイスを繰り広げる地上戦(横の動き)はもちろん、その後の機動隊&警官隊との戦争では木の上から襲い掛かる空中戦(縦の動き)を披露。シーズン1以上に日中にあっけらかんと全身を晒す大立ち回りシーンは、造形含めたクオリティに対する自信の表れでもあろう。ある種、定説(セオリー)をぶち壊す狂気じみた演出であり、実に新鮮だ。

 さらに『ガンニバル』シーズン2は、総合格闘技的な多彩さでも魅了する。大悟と“あの人”のバトルは派手なぶんフィクション性が強いものだが、同時並行で大悟の妻・有希(吉岡里帆)&刑事チームVS後藤家の息のかかったヒットマンのシーンを展開させ、生々しさをカバー。こちらではホテルの一室という狭い環境下での戦闘となり、花瓶やドライヤーといったその場にあるもので応戦。刺される・首を絞められる・舐められるといった生身の痛みや恐怖が容赦なく描かれ、こちらも視聴者を戦慄させる(車が体当たりしてくる事故シーンも!)。そして休む間もなく、後藤家と機動隊&警官隊による“全面戦争”が勃発。じりじりしたにらみ合いが続くかと思いきや、早々に後藤家が発砲。鎌を持った“あの人”も加わり、至る所で血しぶきが上がる阿鼻叫喚の地獄絵図状態になっていく。戦場を駆け抜けていく臨場感たっぷりの手持ちカメラ、ヘルメットを装着した隊員の視界を再現したPOV(主観映像)、後藤家の現当主・恵介(笠松将)を追うGoPro的映像、引きの長回しといった様々なショットを自在に織り交ぜながら、あらいざらい隠すことなく見せつけていく(死体が山と積まれている光景など、完全に戦争映画のそれだ)。

 そして第3話では、エピソードタイトル「覚醒」の通りに大悟のヒロイックな活躍が描かれる。娘・ましろ(志水心音)が話せなくなる原因となった過去の事件をフラッシュバックさせつつ、「そっちが狂うなら、こっちも狂うしかねぇんだよ!」と叫び、向かってくる後藤家の戦闘員たちを次々に倒していく大悟。ここではしっかりと大悟が輝くような画面設計がなされており、柳楽のパッションあふれる熱演も相まって痛快アクションとしての見ごたえが追求される。かと思えば、後藤家の凋落を感じ取った者たちが復讐を開始する第7話は、第1話と同じ後藤家の屋敷が舞台でもどこまでも陰惨に、ダークな狂気でもって描かれる。戦闘には参加していない女性や老人、子どもが撃たれ、閉じ込められ燃やされ、根絶やしにされていくさまは相当ショッキングで、虐げられてきた者たちの積年の恨みや怨念が画面越しに突き刺さってくるようだ。このように、『ガンニバル』シーズン2では毎エピソードに何らかのバトルシーンが用意されているが、そのテイストが全て異なっている。柳楽はシーズン2の進化点を「武器の数が格段に増えた」と語っていたが、スケールアップに加えてバリエーションも大幅に拡大。ただ過激なだけでなく、視覚的に飽きさせない仕掛けがごまんとみられるのだ。

 加えて重要なのは、全てのバトルシーンに必然性が感じられること。賛同できる/できないは置いておいて、渦中で戦う者たちの心情や思考、信念が丁寧に提示されているため、物語の中で浮くことがない。大悟であれば暴走がエスカレートして限界突破状態になってはいくが、その根底には「子どもを救うため(なら皆殺しもいとわない)」という気持ちがある。これは銀の息子に対する想いとも通じるもの。各々が大切な存在を守るため、その利益を優先して衝突していくのが『ガンニバル』の特徴でもあるのだ。シーズン2のバトル部分が進化なら、ドラマ部分は大悟・銀・恵介・岩男(吉原光夫)等々、より各々の心理を掘り下げており、“深化”を遂げているといっていい。笠松将はシーズン1での恵介を「まだ手札を隠している状態」と評していたが、シーズン2ではそれぞれに対する印象がシーズン1とはまるで変わるはずだ。

 個性的なキャラ立ちに行動理念が的確に結びついているからこそ、「大悟VS後藤家」のメインストーリーから銀の過去編や恵介の母・藍(河井青葉)と彼女が保護した元生贄・寺山京介(高杉真宙)のパート等々に移っても熱量が落ちることがなく、全員が主人公的であり重要キャラクターであるような感覚で没頭できる。ドラマオリジナルとなる恵介と父(六角精児)の切ないエピソードも絶妙で、畳みかけながらも押せ押せ一辺倒にせず、しっとりとしたシーンでは静的に見せる緩急の使い分けも秀逸だ。描写等々のルックはどんどん狂い続けるのに中身は緻密に創り上げ、視聴者をふるい落とさない『ガンニバル』。フォローを欠かさない親切さも、途中離脱者を出さずにむしろ増やせた大きな理由だろう。

 バトルとドラマに象徴される、攻守のバランス。それらが最大級に結実したのが、物語のフィナーレとなるシーズン2第8話とエピローグだ。原作ではイヤミス的な後味の悪さが尾を引く終わり方だったが、実写版では供花村の“その後”と大悟たちが選んだ結末が静かなエモーションを掻き立てる。人によっては感動するだろうし、別の人が観れば「それでいいのか?」と複雑な感情を抱くかもしれないラストだが、シーズン2第1話とは打って変わった静けさ漂うシークエンスが、“家族”というテーマを強固に浮かび上がらせている。

 家族とは元来、他人の物差しで推し量れるものではなく、その家族ごとに正解があるものだろう。故に時として他者とぶつかる事態が引き起こされ、本作でいえばましろのために暴走する大悟や「後藤家以外は動く肉塊」と言ってのける銀のような極論にまでたどり着いてしまう。その逆に、本人たちが幸せなら他人が過干渉するべきものでもない。自分たちだけの幸せを手にした大悟たちを遠景で見つめるショットにはある種の断絶による寂しさが漂うが、これは阿川家が機能不全の状態から脱した証明でもあろう。そしてまた、後藤家がたどる結末にもどこか物悲しさが漂い、次世代の子どもたちが見せた希望の欠片もあって「家族とは何だったのか」という問いを投げかける。しかしその答えもまた、作品の中では明確に示されない。だが先述したように、答えのなさこそが家族という共同体の本質でもあるのだ。

 『ガンニバル』は日本産ドラマの歴史を変えたエポックメイキングな作品だ。だが、好き勝手に暴れっぱなしな稀代の問題作ではない。家族という普遍のテーマと今一度とっくりと向き合い、旧態依然とした体制が次世代を苦しめる姿や好き勝手に搾取しすぐに忘れていく世間といった社会的な課題感を突き付ける。そしてさらには余韻と共に視聴者に投げかけ、考え続けることを促す――。実に骨太でこの先も風化されない真のエンターテインメントが、ここに誕生した。

(文=SYO)