「我々を応援してくださる方に○○をお届けしたい」とは、森保監督がマイクを向けられるたびに口にする、お決まりの台詞だ。

 ○○には主に「勝利」が入るが、1年前に開催されたアジアU-23アジア選手権でいきなり2連敗し、グループリーグ落ちした時は、言うに事欠いたのか「最後まで戦う姿勢」だった。森保監督の支持率は急落。現在40%と言われる菅首相と一瞬、似た(?)状態に陥ったが、その時でさえ、森保監督は「我々を応援して下さる方」を強調していた。

 普通にサッカーファンの皆様、国民の皆様とせず、なぜ「我々を応援してくださる方」と、わざわざ範囲を限定するのか。

 さらに言えば、我々とは誰を指すのか。日本代表ではなく森保ジャパンに聞こえて仕方がないのだ。代表メンバーはその都度、入れ替わるので、その「我々」とは、半ば「私」に聞こえる--とは、考えすぎか。

「くださる」と敬語を使用するものの、円やかな言葉には聞こえない。どこか排他的なギクシャクした言い回しに聞こえて仕方がないのだ。

「我々を応援してくださる方に勝利をお届けしたい」とすれば、それ以外の人、つまり以前から日本代表、森保ジャパン、森保監督(?)等々のファンでなかった人は、その範囲から外れた存在となる。新たなファンの獲得を目指しているようには聞こえないので、ファンの幅は時間の経過とともに狭まっていくことになる。

 日本にサッカーファンを増やすことが、日本代表監督に課せられた使命だとすれば、これは適切な言い回しとは言えないのである。日本サッカー協会やJリーグは何のために存在するかと言えば、サッカー競技の普及、発展だ。前回のこの欄=【正月の国立で戦った4チームに、「ファンや国民に勇気を与える」自覚はあったか?】でも述べたが、サッカーの普及、発展に貢献しているか否かが、勝ち負け以上に、目の前の試合を評価する際の分かれ目になる。

 正月に国立競技場で戦った川崎フロンターレ、ガンバ大阪、FC東京、柏レイソルは、そうは言ってもクラブチームだ。普及、発展に貢献するサッカーをして欲しいが、背負っている絶対量は、日本代表に比較すれば軽い。先頭を切るのは、日本代表、森保ジャパン、そして実際に采配を振る森保監督でなければならない。

 何事もそうだが、ファンになる瞬間は、偶然というか、ふとしたタイミングで訪れる。何気なくテレビをつけたら、サッカーの試合をやっていて、退屈しのぎに眺めていたら、気がつけば最後まで見てしまったという人は多いはず。運良く面白い試合に遭遇する割合が高い。潜在的にエンタメ性が高い競技であることが、サッカーが世界で断トツの人気を誇る理由だろう。

 特段、日本代表に思い入れがない人は実際、かなりいる。何十年と途切れることなく見続けてきた人より、熱心に見た時期もあれば、離れていた時期もある人が多くを占めるのではないか。何かをきっかけにサッカーから離れ、何かをきっかけに戻る。

 自軍の選手がほとんど選ばれていないので、日本代表戦を積極的に見ようとしない川崎ファンは実際、普通に存在する。Jリーグが盛り上がるほど、代表チームより自軍チームに高い応援精神を発露するファンは増える。

 日本代表を普段、特別熱心に応援していない人に、振り向いてもらおうとする姿勢が、「我々を応援して下さる方に」を口癖にする森保監督には欠けていると言われても仕方がないのだ。

 そもそも日本代表は、世界に向けて何かを発信しようとする集団ではないのか。4年に1度のW杯本大会。何十億という世界の人々が観戦する五輪以上の大会だ。たとえば日本対ベルギー戦の視聴者は、日本人より、ベルギー人より、それ以外の人の方が圧倒的に多かった。